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ken tsurezure

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trainspotting freak

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2022.07.01
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カテゴリ:音楽あれこれ
約27年前に全盛期を迎え、約20年前に突然活動を停止して、2年前に久しぶりの新譜を出したアーティストがいるとする。
2022年にそのアーティストがコロナ禍を経て約3年ぶりにコンサートをするという。
その彼が行うべきライブは何だろうか。約27年前の曲だけで構成されたヒットパレードみたいな同窓会ノリのライブ?それとも今の「彼」を表現するようなライブ?
そして僕は彼になにを期待すればいいのだろうか。かつてのヒット曲を聞いて「昔は僕も若かった」とノスタルジーに浸ること?それとも、ノスタルジーではなく「今」を直視すること?
「彼」とは小沢健二を指す。そして僕は90年代の「僕」よりも確実に年を取り、もう若くない。
フジロックのライブのときは「LIFE」というアルバムを中心に、90年代に若者だった人たちにアピールする大盛り上がりの祝祭だった。
今年もそれをすればお客さんは満足して帰ってくれる。そんなことは彼にはわかり切っていたことだろう。でも小沢健二はそうしなかった。
2022年6月26日のライブを見に行った。ポエトリーリーディング、渋めの選曲、非常に高度な演奏技術に支えられたその音楽。それは僕が初めて「ecletic」というアルバムを聞いたときを思わせるそんなライブだった。
「ecletic」というアルバムを聞いたとき、僕は非常に戸惑った。特に「LIFE」といアルバムを経てのことだったからなおさらだった。
コマーシャル性の高いフィーリーソウルから、突然ダニーハサウェイのようなストイックな感じになってしまったかのような「ecletic」というアルバム。何も先入観を持たずに今聞いてみると、非常に優れたアルバムだと思う。
でも「LIFE」という非常にアッパーで多幸感に溢れたテンションの高いアルバムを聞いた後にこのアルバムを聴くとよくわからなかった。それが当時の僕の反応だった。

このコンサートはこのような構成だったのではないか。
2020年。突然起こったパンデミックで世界が災厄のときを迎える。その戸惑い。深い絶望。そして苦悩。そうしたものを表現した前段。2022年。ようやくパンデミックは落ち着きを見せ、新たな展望と共に「新しい日常」へと変化していった。それは混沌と新たな災厄をはらみながら少しずつ新しい価値観や新しい希望を少しだけ含んでいる。そんな今の時点を表現した中段。そしてその新しい価値観や希望が儚く消えるものではなく、新しい「祝祭」へと続いてほしいという祈りや願いを表現した後段。
そんな3段構成のコンサートだった。僕はそのように思った。
「いちょう並木のセレナーデ」や「大人になれば」のようなどちらかというと静かな曲で構成された前半。
「ecletic」バージョンで演奏された「今夜はブギーバック」
2022年の今に祈りをささげる小沢健二流のゴスペルのように聴こえた「天使たちのシーン」
「強い気持ち・強い愛」でいつもとは違う形だけど大きな盛り上がりを見せた後、その祝祭自体に祈りをささげた「ある光」。
それは小沢健二の「今」の時点をリアルに表現したライブだった。

今から考えると小沢健二という人は時代のリアルに敏感であり、自分にとってのリアルを大切にするアーティストだった。70年代は「ひこうき雲」、80年代は「ロング・バケーション」、90年代は小沢健二の「LIFE」とまで高く評価されている「LIFE」というアルバム。このアルバムがそこまで評価されているのは単に音楽が優れているからというだけでなく、時代にくさびを打つような重要なアルバムだったからなのだろう。
そして賛否両論が飛び交ったその後のアルバムも彼自身のリアルを表現しようとした結果だ。

もし2022年の6月26日のライブがフジロックと同じ「同窓会ノリ」の焼き直しだったなら、多分僕は失望しただろう。もう小沢健二は終わった。と。
だから小沢健二が2022年を表現し続けようとしたこの日のライブは、たとえ僕にはわかりにくいものであっても、喜ばしいことだと思う。
それを承知のうえで、僕はこんなことを思った。今回のライブはすごくヘビーで「大人向け」で少し敷居が高かった。と。
その感想は「ecletic」というアルバムを聞いたときにまず初めに感じたことと似ていた。
だけれども、もしこの日のライブがDVD化されて記録として残ったら、僕はあと2年後くらいになって、その日のライブはすごくよかったと手放しで絶賛しているかもしれない。
ちょうど「ecletic」というアルバムが名作であることが今になってわかったように。
僕も彼や彼女も90年代には20代の若者としてその時代を生きていた。そして2022年の今も僕らは中年期のオジサンとして生き続けている。
小沢健二も同じく2022年を生きている証明として、今感じたリアルを表現し続けている。
その姿のスナップショットとして2022年の6月26日のライブがあった。僕には少し敷居の高かったその日のライブも、逆に言うと小沢健二が「今」を生き続けているアーティストであることを示しているからだ。
そしてまた問いは一番初めに戻る。90年代が彼の活動のピークであったのは確かなのだから、その再生産をやっていれば充分なのだ。という見解。
90年代のように時代のトップランナーではないとしても、今アーティスト活動をしているのだから「今」を表現しなければならないし、するべきだ。という見解。
どちらが正しいのだろうか。
今の僕にはその判断がつけられなかった。敷居の高さが気になったせいだ。
そしてその正否はあとになって振り返ってみて、という形でしか確かめられないような気がした。


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Last updated  2022.07.01 13:38:39
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trainspotting freak@ コメントありがとうございます aiueoさん コメントありがとうございます…

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