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2005年03月10日
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カテゴリ:飛鳥時代
すべてにおいてパーフェクト、皆の愛と注目を一身に浴びて育った大津皇子。かたや、体も弱く凡庸で、存在感のとぼしかった草壁皇子。そんな草壁皇子のママ、鵜野(うの)皇女の親心は、くやしさと嫉妬ではち切れんばかりだった事でしょう。そして次第に、どす黒い思いが胸底からムクムクと湧き出してくるのです。
あの子さえ、いなければ……と。


そのゾッとするような冷たい感情を、押さえ込む機会は何回もあったと思います。
例えば、ダンナが天皇の位をめでたく射止め、彼女を皇后(正妻)に選んでくれた時。これでわが子の立場も保障されたも同然…と、ほっと一安心したはずです。
もう一つの大きなイベントは、679年、天武天皇と鵜野皇女、そして6人の皇子(うち四人が天武の子ども、あとの二人は天智天皇の子どもでした)といっしょになつかしの吉野を訪れた時のことでした(吉野の会盟と呼ばれています)。昔の思い出に花を咲かせながら、天武パパは奥さんと子どもたちに、「どうか皆、互いに争うことなく、いついつまでも仲良く助け合っていってほしい」としみじみ語りかけたのです。
それに真っ先に答えたのは草壁皇子(後継者ナンバー1の扱いをされていた事が、うかがわれますね♪)でした。
「天皇のお言葉に従うことをお約束いたします。もし今後、この約束を破るようなことがあれば、その身はほろび、子孫は絶えることになりましょう(後から考えると、これってすごく不吉な予言になっているんですよね…)」
他の皇子たちも同じようにお約束し、感極まった天武パパは皆を抱き寄せて、こう言います。
「私の子どもたちよ、おまえたちは異なる母親から生まれたけれども(異なる父親からも生まれてるけど…あ~、ゴメンナサイ、また余計なツッコミだ!)、一人の同じ母親から誕生した子どもたちのように、ひとしく大切にしていこうぞ」
同じような誓いと儀式は、鵜野ママと皇子たちの間でも行われました。後継者争いがいかに過酷でみにくいものか、知り尽くしていた天武パパの、それは切なる願いだったのです。ダンナと自分の出発点にあたるなつかしい吉野で、交わされた神聖な誓いに、鵜野ママも心を動かされ、大津皇子に対する恐ろしい感情を一瞬は忘れられたのかもしれません。(でもでも、「ダンナはそれでいいかもしれないけど、私の子どもは草壁一人だけよ」と、冷めた目で皇子たちを抱き寄せていた可能性も捨てきれず、とってもコワイなあ……)


しかし結果として、それらの出来事は「焼け石に水」でしかありませんでした。
681年、草壁皇子は皇太子(正式は後継者)に任命されたとありますが、そのすぐ後に、大津皇子も政界に華々しくデビューを飾り、天武パパはふたりを同等の立場であつかっていたようです。そのため、草壁皇子=皇太子という『日本書紀』の記事を疑う見解もあるそうですが、これからの鵜野ママの暗躍をみる限りだと、草壁皇子はひょっとすると皇太子になっていなかった可能性が大きいよーな気がします。
そうなると、鵜野ママのあせりは当然という感じになってきますよね~。もし、夫にせっついてわが子を皇太子にさせたとしても、無神経な(?)ダンナは大津皇子も自分の後継者扱いしているワケですから、鵜野ママの不安はいつになってもおさまりません。
しかもこの大津皇子ときたら、(鵜野ママにとっては)ちっとも可愛くなかったのでした。少しは自分に遠慮すればいいものを、実際はまったく逆で、息子が想いを寄せていた女性を横取りしたばかりか、「オレの方がいいって言うんだからしょーがないじゃん」と居直るそのふてぶてしさ。
絶えることのない不安は、やがて大津皇子への憎悪に変わっていき、天武天皇の死後、抑えてきた激しい感情がいっきにはじけてしまうことになったのです。

686年9月9日、天武天皇、死去。
同年9月24日、大津皇子の謀反が発覚。
そして同年の10月2日、大津皇子は逮捕され、翌日自殺させられたのです。24歳という若さでした。


天武天皇の死を待っていたかのようなタイミング。調査などそっちのけの、あまりに早すぎる処分。事件に関わったとされる30人余りのうち、重い刑罰を与えられたのは大津皇子のみ。これは何もかも不自然で、理不尽な事件だったのです。


大津皇子の死後も悲しみは続きました。大津の妃、山辺(やまべ)皇女は髪をふりみだして泣き叫び、はだしのまま夫の遺体を追いかけて、自殺してしまいます。
大津の姉、大伯皇女(おおくのこうじょ)は伊勢の斎宮(神様に奉仕する未婚の女性)に任じられていましたが、弟の「謀反」のためにその任務から外され、都に戻ってきます。お母さんを亡くし、弟ふたりで助け合ってきた日々、14歳の若さで斎宮の役を押し付けられて、未婚のまま神に仕えた日々……ささやかな幸せがあったとすれば、弟の活躍を遠くから見守ることだけだったのかもしれません。しかしそんな小さな喜びも無残に奪われた今、彼女は弟の遺体を二上山(ふたがみやま)に葬って(謀反人はちゃんと葬ってすらされないそうです…)、その二上山を愛しい弟と思って、涙ながらに眺めるしかありませんでした。

最後に大伯皇女の残した悲しみの歌を二首、ご紹介します。

神風の伊勢の国にもあらましをなにしか来けむ君あらなくに
(伊勢の国にずっといればよかったものを、なんで大和などへ帰ってきたのだろう。逢いたいただ一人のあなたも、すでにいないのに……)

うつそみの人なる吾や明日よりは二上山を弟(いろせ)とわが見む
(魂のぬけてしまったような私だが、これからは二上山を愛しい弟だと思って見ていこう……)


この陰謀に鵜野ママはみずから手を下したのか、真相はハッキリ分かっていません。しかし限りなくクロに近いのは間違いないと思われます。
長年の邪魔者が消え去って、草壁皇子の時代が始まるはずでしたが、神様はちゃんと見ておられたのでしょうか(私はそう勝手に決め付けているぞ!)、鵜野ママに新たな試練が襲いかかります。続きは次回にて☆


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追記…昨日の答えです。
★1番★の(1)現代人→昭和時代→古墳時代→鎌倉時代→江戸時代・明治時代(ビリ2つは順不同)
意外に健闘しているのが古墳時代の人々。新聞記事によると、その理由としては、「混血が進み、身長の高い渡来人系の形質が強く出たこと、文化の融合による生活様式の変化が体形に反映したこと、米作開始などで栄養が安定し、発育が良くなった」などが挙げられるそうです。
江戸時代&明治時代については、食糧生産が人口の増加に追いつかず、エネルギー摂取量が不足していたとか。仏教の浸透で、肉食が制限されたのも大きいそうです。ちなみにドラマ「大奥」でもおなじみ、14代将軍家茂(いえもち)は153センチだったとか。私より15センチも低いッス…。
(2)鎌倉時代。男性優位になってきた生活文化と関係があるといわれてます。

★2番★
問1 A:隋 B:乙巳 C:公地公民 D:白村江 E:庚午年籍 F:壬申
問2 1:ク 2:エ 3:ケ 4:セ 5:イ 6:サ 7:ス 8:カ 9:オ
問3 冠位十二階の制
問4 南淵請安(中大兄皇子や中臣鎌足が通っていた塾の先生でしたね~)
問5 重祚(ちょうそ)

チャレンジして下さった方、お疲れ様でした^-^





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最終更新日  2005年03月10日 13時06分21秒
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