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2022年07月28日
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で、「真田太平記」の話の続き。
島田兵四郎って、どういう人生を送ったのだろう
と調べてみたら、以下の通りだった。

島田利正(しまだとしまさ)
父の領していた三河矢作城にて生まれ
後に父と同じく徳川秀忠に仕えた。
小田原征伐の鉢形城攻めや
関ヶ原の戦いでの働きぶりが見える。
慶長18年(1613年)から寛永8年(1631年)まで
江戸南町奉行。
最上騒動の際、幕府の使者となる。
それらの功績により従五位下弾正忠に任官された。
江戸南町奉行時代、現在の北八丁堀付近に屋敷があり
付近にあった楓川にかかる橋が
官名にちなんで弾正橋と名付けられた。

大馬鹿どころか江戸南町奉行まで務めている。(笑)
で、最上騒動なのだけど
出羽山形藩の最上家に長年続いたお家騒動で
藩の世継ぎを巡る謀殺に継ぐ謀殺の
本当にしょーもない騒動である。
あまりにゴタゴタしているので
幕府が介入することになり
その沙汰を知らせるのに使者として
過去に実績のある?島田利正が選ばれたというわけだ。
ただ如何せん相手が
武士の面をかぶった武士ではないようなヤツらなので
さぞや兵四郎も難儀したことだろう。
実はその怨嗟が
宇都宮釣り天井事件までつながるというのだから
驚きである。





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最終更新日  2022年07月28日 17時06分44秒
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