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幽霊というのは現実における存在でもなければ、まったくの虚構でもない(と考えられています)。
現実と虚構の間に横たわり、時として現実世界に顔をのぞかせて「死」を示唆したり、我々の生存可能性を脅かすものが幽霊というものです。 ただ、よく考えてみますと、現実と虚構(=あの世)の双方に佇む存在であるがゆえに、幽霊というのは魅力的でありますし、ある意味では希望にもなりえるのです。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 幽霊がなぜ魅力的であり、希望にさえなりえるのかについて説明する前に、「死」についてちょっと考えてみましょう。 私は先に「”嫌悪”としてのホラー」について、以下のように説明しました。 =========== ”嫌悪”とは、不快や驚きといった人間のエモーショナルな反応のことですし、人間の生存が脅かされる事態(死が示唆される状況、現実をコントロールできない状況)において生じる心的反応といってもよいでしょう。 =========== 我々が幽霊を”嫌悪”する根本的な理由は、「死」が示唆されるからです。 「死」は我々にとって最大の恐怖です。なぜ恐怖なのかといえば、「死」とは自分自身の消滅すなわち<無>を意味するからです。 「死」すなわち<無>とは何か? などと問うてみても無駄です。 対象として、我々の思考どころか(通常の)感覚さえも拒否するのが<無>という状態なのですから。 人は必ず死ぬ・・・・・このことに異論がある人はまずいないでしょう。つまり、「人は必ず死ぬ」というのは、もっとも客観的な事実と我々は認識しているわけです。 人間は「死」について、結構幼少の頃から恐怖の念を抱くようですね。 私は小学生の頃でしたが、私の子どもたちもそうでした。小学生の末娘なども最近「私、絶対に死にたくない!」などと涙ながらに訴えてきております。 「死」の恐怖を和らげるために、人間は、例えば宗教という「物語」を創り出してきたといってよいでしょう。 宗教的な死後世界には、極楽、天国、浄土、地獄などといった「虚構」がつきものです。つまり、宗教の癒しのメカニズムは、「物語」の力によって「死」が孕む<無>を<有>へと転換することにあるわけです。 そして、幽霊にも宗教と同様の「物語」性があるんですね。 「現実と虚構の間に横たわり、時として現実世界に顔をのぞかせて我々の生存を脅かすものが幽霊」であるとして、もし、実際に幽霊が存在するのであれば、間接的にではありますが、現実世界のほかに虚構世界(=あの世)も存在することが証明されることになり、我々にとって「死」はまったくの<無>ではなくなるわけです。そういう意味で、「幽霊というのは魅力的でありますし、ある意味では希望にもなりえるのです」。 つまり、幽霊という存在は「死」を示唆しつつも、「死」の乗り越えの原理をも到来させえる、ということですね。 私はかつて、近所の寺の住職に、「幽霊というものを是非とも見てみたいものだ。死後の世界があるのなら、私は死を怖れるどころか、場合によってはすすんで死ぬかもしれません」と言ったことがあります。住職の答えは「そういう人間は、死んでも幽霊にはお目にかかれんよ」というものでしたが(笑)。 バタイユによれば、エロティシズムとは「死の乗り越えの可能性」とほとんど同義なのですが、そう言われてみると怪談ってどこかエロティシズムが漂うものが多いですね。と言いますか、人間は(バタイユ流の)エロティシズムを求めて幽霊という「物語」を創りだしてきたのかもしれません。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 先に紹介したように、小中千昭氏などは、幽霊”そのもの”が「本当に怖い」と考えているわけです。 皆さんは、小中氏による(観客を恐怖させるための)「小中理論」の骨子は、作品で 【 幻想に他ならない幽霊を、いかにリアル(客観的)に描写するか 】 に最大の力点がある、ということにお気づきなられたと思います。 人智を超えた客観存在として幽霊を描写すれば、観客は本当に怖がる、と。 「小中理論」で前提されているのは、幽霊というものは絶対的に怖い存在である、ということです。 しかし、いかに映画や小説の中とはいえ、そう前提してよいものかどうか? その前提で作品をつくり続けると、たぶん、マンネリ化してしまうと思います。そうなりますと、観客受けするために、より衝撃的つまり”嫌悪”を増幅させるような刺激的なシーンを取り入れていかざるをえないことになります。つまり、技術的なアイデアの勝負になるということですね。実際、いまの日本の「幽霊映画」はそういう状況にあるのではないでしょうか。 幽霊が怖いのは、幽霊の存在によって、普段の日常生活にまぎれて心の深層に隠匿されている「死」すなわち<無>の恐怖が顕在化させられるからです。 さらに、幽霊が絶対的に怖いという前提に立つ限り、幽霊という存在によってこそ心に湧きあがってくる魅力や希望、さらにはエロティシズムについては、軽視され続けることにもなるでしょう。それでは、奥の深い幽霊映画を製作することはできません。 幽霊=「本当に怖いもの」と先験的かつ客観的に扱うのか、それとも、幽霊を一度「心」に還元して意味や本質をとりだすのか・・・・そこが小中氏(前者)と私(後者)との根本的な違いです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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