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カテゴリ:家族
今日は父の二七日になります だから…という訳でもありませんが、残業せずに帰宅しました 昨日の日記の続きです。 11月19日 病院へ駆け付けたのは、確か午前10時半を過ぎていたと思います。 父は呼吸が荒く()、瞳は濁って焦点が合っておらず() (この辺は何と表現していいか分かりませんが 付けていた計器の数値も昨夜よりは悪くなっていました) 意識も混濁しておりました(…と言うより、ほとんど無かったのでしょう)。 継母と主治医の話では、朝は継母と会話を交わし、 『アイスを食べたい』と話したそうです。 父は食事をほとんどとれなくなっていましたが、胃ろうによる栄養補給を拒み、 最近は栄養補給のための点滴も外していましたが、 喉越しの良いヤクルトとアイスだけは好んで口にしていました。 父の申出に継母がアイスを与えたところ、それが気管に入ったらしく、容態が急変したようです。 もう、物を飲み込む力も無くなっていたということでしょう (父の我儘をいつも受け止めてきた継母ですから、継母を責めることはできません。) しばらくすると、弟夫婦と叔母夫婦も駆け付けました… この頃には管で取っていた尿も出なくなっており、 自分は『もうダメかも…』と感じながらも、そんな考えを打ち消していました。 皆が「お父さん…お爺ちゃん…お兄さん…頑張って」と声をかけておりましたが、 自分は「頑張って…」とは言えませんでした なぜなら、20年以上前に実母が癌で亡くなる最後に「頑張って」と声をかけたところ、 父に「もう頑張ったんだから、頑張れと言うな」と言われた記憶が鮮明にあったからです。 正午を過ぎた頃には呼吸の回数が少なくなり、眠るように呼吸が止まりました。 間際には継母が父を抱くように寄り添い 「お父さんは立派だった。あなたたちは、お父さんに感謝しないといけないよ」と 泣いていた姿が今も鮮明です。 父が継母と再婚し約20年…長い間、父の我儘をものともせずに、 発病後から他人に真似の出来ないような介護してきた‘お母さん’も十分に立派です 病棟のステーションで待機していた主治医が入室し、午前0時14分死亡を確認しました。 ステーションの機器のモニタで監視していた主治医によると 「3分前には呼吸が全停止していた」とのことでしたが、 自分は死の間際に父の口がカクっと動いたのを見ており、 最後に何か言いたかったのかなぁ~と感じています しばらく病室でお別れをし、気持ちの整理を付けて、 自分と継母、弟、叔母の4人で主治医の話を聞きました。 主治医とは昨夜、父の今後について話し合ったばかりであり 「ホスピスへの道がみえた矢先で残念」と言いながらも、 アカウンタビリティーを果たそうといろいろ話しておりましたが、 自分は(今の医療制度に憤りはあるものの) 「父も家族も、あちこちと管でつないだような延命治療は望んでいなかったことから、 急ではあったけれども仕様がありません 主治医やナース、関係者の方々の対応には感謝している。」と言ったようなことを伝えました。 主治医によると 「父の死が眠るようで老衰に近い状態であるが、死因は多発性骨髄腫」とのことでした。 思い返せば、自分が聞いた父の最後の言葉は、 前日にホスピスの面談に時間がかかり、父が機嫌を損ねているだろうなと病院に戻った時に、 父が発した『わがままだっ』という言葉でした 要は父がそんな状態の時に、誰も側に付いていなかったために口に出た言葉だったんでしょう。 (自分で死が近いことを覚悟していたのかもしれません) 父を我儘だと言い続け、最後に言い返されました それでも前日に、長く父に会っていなかった我が息子(孫)を 連れて行って父に会わせることができて本当によかったと思います 父は孫の志望大学合格を大変楽しみにしており、 その合格を報告できなかったのは残念ですが……… 長々と書いてきましたが、まだまだ続きます 明日からは葬儀編…これも大変でした… お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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