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カテゴリ:国内小説感想
私も好きです。
良いから参った。 どの話も純愛が軸になってるのは、「純愛テーマに書いとけば何やってもいいだろ?」的にやってるのか、「僕の書く純愛は結局こうなっちまうんです」という開き直りか。やっぱり作者は女性だと思う。 「身体中に虫が入り込んで、患者を死に至らしめる」病にかかった恋人の女性を前に右往左往する主人公、ボリス・ヴィアン『うたかたの日々』を思い出すような話は最初だけ。幾つもの断片の中、核となるのは小説家の男と、癌に冒され、死にゆく、死んだ、死後の女性との交流話。『うたかたの日々』は以前読もうとしたが、おしゃれな雰囲気に呑まれて挫折した。こちらは続いた。 「柿緒のことが本当に好きだよ」と僕は言う。「心から」 「私も治のことが好きだった」と柿緒は言って、僕も、そして柿緒も、それが過去形で言われたことにすぐ気付く。その気付きは稲光みたいに僕と柿緒のその瞬間を照らす。 僕は「どうして過去形なんだよ」と軽くツッコミたかった。でもここでこのときこんな台詞を軽く言うことなんて無理だった。どんな言葉も出てこなかった。柿緒も訂正なんてしなかった。それもそうなのだ。それはもう言葉としてきっと間違いではないのだ。それはもうすでに過去のことなのだ。僕と柿緒の<<恋愛>>は。 もちろん言うまでもなく柿緒が今はもう僕のことを好きではなくなったということではない。僕達の<<恋愛>>が過去になったのは、<<柿緒>>が過去のものになったからだ。 死はこんなふうに始まるんだ、と僕と柿緒は知る。 あれだけ考え、空想し、思い悩み苦しんだ<<死>>の在り方が、唐突な形で明らかになった気がする。人は心臓が止まったり脳が動かなくなったりして死ぬんではない。死はもっと、誰かが思ってるよりももっとずっと緩やかに始まり、終わるのだ。柿緒は今、僕の前である意味既に死んでいるのだ。その緩やかで穏やかで、しかし宿命的な死が柿緒においていつ始まったのかは分からない。でもその死は柿緒のなかでずっと前に起こり、そしてゆっくり柿緒の生を食い潰しながらだんだんと大きく育ってきたんだろう。そして今や生よりも死が勝ってしまったのだ。それと戦ってきた柿緒は負けてしまっていたのだ。もうとっくに、いつの間にか、柿緒自身も知らないうちに、たぶん柿緒はまだ戦い続けているつもりだったんだろう。柿緒はもう死んでいる。心臓も脳も動いているが、既に死が柿緒を飲み込んでいる。柿緒が死に自分を飲み込ませてしまっている。柿緒は自分を、生を諦めたのだ。 『好き好き大好き超愛してる』より やっぱり本気に見える、この純愛。切るとこなかったし。 もう一編の『ドリル・ホール・イン・マイ・ブレイン』は、母親の浮気相手に、プラスドライバーを頭に刺された男がそれを機に自分の脳内に広がる世界に入り込んでしまい、自分の分身、調布=世界を守るヒーロー村木誠として、ユニコーンの彼女と頭の穴でセックスしたり、美術部の先輩に頭の穴に腕つっこまれてエクスタシー感じたら先輩が敵だったり、股間に咲いたクリトリスの花をいじりながら電車で調布から福井県の、本当の自分のところまで会いに行こうとするけど、敵になっちゃった彼女を殺しに行くために呼び戻されて、逆らったけど頭の穴専用バイブで政府のいいなりになっちゃうとか、そういう話。 でも、一見相当ふざけてるように見えるこの話も、核はやっぱり純愛で、そこのところは素直にいいなあこの二人、とか思ってしまって、なんか恥ずかしいな自分、となった自分を観察し、作者に騙されてないだろうなこの感情、と疑心暗鬼に陥ったりもするけど、やっぱり嫌いにはなれなくて、かなり好きな方に針が揺れてて、変な気持ち。 講談社 2004年 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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