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カテゴリ:国内小説感想
これで舞城王太郎読みは一応終わり。出版されてる本は全て読んだ。
『煙か土か食い物』の続編ともいえる、奈津川家サーガの一冊。『煙か~』では探偵ルンババに居場所を奪われて、奈津川兄弟では、というか奈津川一族では一番影の薄かった小説家三郎が主人公。 どこからが嘘だったんだろう。いや、最初から虚構なのだから、物語なのだから、全て嘘ではあるのだけれど、途中まではある程度信用の出来る物語だったのだ。だけど終局を待たずともこれは作り物の中で作られた作り物だということに気が付いた。語り手が小説家の場合、書かれたことをまともに信用してはいけない。 奈津川家一家紹介。暴力一家の暴力王丸雄、父と同じく政治家の道を歩む一郎、暴力王子二郎、一応小説家の三郎、アメリカのERで働くやり手の医者で名探偵で『煙か~』の主人公だった四郎、丸雄に惚れる変な感性を持って、『煙か~』の最初から主婦殴打事件の被害者として昏々と眠り続けている母陽子、一郎の嫁理保子。 三郎が主人公なのでいろいろ楽しみにしていた。「作家としての物語に対する思いが書かれているんだろう」「奈津川家にある五角形の蔵の中にある書物について書いてるんだろう」「小説の中で小説を書き始めるかもしれない(これは当たってたようでそうでもないようで)」など。物語に対する考察や信念などはやや語りすぎと思えるくらい味わえた。蔵の中の書物に関してはノータッチ。そして三番目のは・・・。 『煙か~』で、三郎について書かれていることを確認してみた。三郎がピアノをやめた理由が本書とは全く異なっている。『煙か~』では「政敵あるいは二郎の敵に襲われて腕を折り、同時にピアノに向かう気力も萎えたから」本書では「二郎が弾く本物の才能によって奏でられる旋律に圧倒されたから」。女友達にしつこく付きまとう男に、二郎ばりの暴力を振るう姿も『煙か~』では書かれていない。そりゃあ、この二つの作品が厳密に同じ世界にあるとは思っていないけれど。やっぱりちょっとおかしいよ。 ということで、この物語のおかしくなりはじめはどこかと探していたら、別の事を発見した。『煙か~』で書かれた事件を基にして、ミステリ作家である三郎は小説を書くことが出来る、いや書く義務まであるかもしれないというのに、三郎は書くことから逃げて、小説そのものから逃げ出してしまう。四郎には最初から見透かされていて「お前には書けん」と言われる始末。その答えがこの物語なんじゃないか、始めから、『煙か~』で起きた事件によって傷つけられた奈津川一家のその後を、三郎流に書いてみせたんじゃないか、と。序盤の事件くらいは、この世界の中で本当にあったことなのかもしれないけれど。奈津川家サーガの続編が書かれた時、それには最初に一郎あたりが「三郎の出した、我が家に関係した事件を基にした小説はベストセラーになってしまい、その影響を受けてか丸雄は政治家を引退してしまう。お袋を二重に(昏睡、昏睡から覚めた後の失踪)失って以来、丸雄はすっかり萎びてしまい、まるでごく普通の老人みたいになっていたから、三郎の小説なんて関係なく政界を退いていたかもしれないけれど。とにかく今俺にのしかかっているのは肉体的感覚を伴わない、視線と噂とペンによる暴力と、背負い込まされたいろんなことに対する責任感である」などと語り始めるのかもしれない。三郎は蔵にでも籠もって何かを書き続けているんじゃないかな。 古典や名著を一読で全て理解する必要などないのだ。そこにある滋味を少しだけでも汲み取れればそれでいいのだ。どうせ大人が読んだって全てを味わい尽くすことなどできない。そもそも一つの物語の全体を余すところなく完璧に理解することなんて、一体誰にできるのだろう?そんなこと作者にだってできないだろうと思う。うむ。少しだけでいいのだ。良い物語にある大きくて素晴らしいもののほんの一部ずつを、少しずつ楽しんでいけばいいのだ。物語とは一読してさよならすべき相手ではないのだ。特にそれが良い物語なら、一生をかけてでもゆっくりと付き合っていくべきなのだ。そうすることで、毎回新しい発見があったり違う要素に気が付いたりするのだ。 では、三郎もこう書いてることだし、舞城王太郎読み始める以前に予定していた「読み直し」に入ろうと思う。名作とか大作に拘らず、自分が素直に今読み返したいという小説にしばらく向き合ってみる。 講談社ノベルス 2001年 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005/02/06 02:19:42 AM
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