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カテゴリ:国内小説感想
名前とか変えたので暇な人はトップ参照。
漱石『明暗』は現在200頁を超えたところ。こんなにのんびりしてていいのかなと思いつつ、他に読みたい小説もなく。いや、一冊あった。町田康のパンク侍、図書館にあれば借りて読もう。なければ別にいいや。そんなノリで。全く期待せずに読み始めたら楽しくて一気に読んだ。ああ、一気に読むのは楽しい時間を自ら縮めてしまうことだとは後で気付く。 期待してなかった理由など。町田康はあの文体でひたすらシュールな世界を紡ぐというやり方に行き詰まっていた。某賞を受賞した『きれぎれ』など、一番底の時期で、最後まで読み通すのが苦しく、初町田がこれだった場合、「わけわからんし読みにくいわ」で放り出す人が多かっただろう。それでも今では数少ない若者の読者を掴みつつ文芸誌に作品を発表して顔も出して露出も多く、最近では文学賞の選考委員を・・・って何でだろうと書きつつ思うけどあまり深くは突っ込まないでおこう。 そんなこといいながらも町田康の小説はほぼ読んできた。それなのに私の中の町田康がほぼ「終わった人」扱いになっていたのは、先頃触れた彼の二つの仕事の印象が最悪だったからだ。ブコウスキーの『酔いどれ紀行』文庫版の解説、短編集「権現の踊り子」に収められている、水戸黄門のパロディ『逆水戸』、どちらも酷いものだった。どうしてこんなことを、こんなノリで、いい加減にしてくれ、と柄にもなく腹を立てた。それでも、度々書評が目に入り、面白いだとか無茶苦茶だとか傑作だとか失敗作だとか書かれると読みたくなってしまうもので、小説読みの空隙にポトリと町田康は舞い落ちた。 あらすじ紹介省略。しいていえば、侍が宗教集団とか猿とか幼なじみとか家老とかとわーんぐぎゃーんてりゃーばしばし、という感じ。 そういえば、町田康特有の、関西弁饒舌歌唄い文体は抑えられ、久し振りの町田小説ついていけるかな、という心配は杞憂に終わった。適度に適当な感じな文章で、時折真面目な文体の文章が挟まると、それは立派な文体の文章のパロディであり、それも一つのギャグなのだ。たとえば、超人的剣客の主人公掛十之進が、同じく超人的剣客真鍋五千郎と、散々斬り合ったあげく、お互いが幼なじみのシトゲちゃんとゲラちゃんだと気付いた時の台詞 あのとき、笛で無茶苦茶にどつき回された差オムの懐から注射器が落ちてがしゃんと割れて、その瞬間、脇にいた差オムの弟、まだみっつくらいだったのが、わっ、と泣きだして、そのとき俺は世界が哀しみに満ちていることをはじめて知ったんだ。夕焼けが麦畑を紅く照らして向こうの林が逆光で黒いのが無気味だった。空がどんどんわたくしに向けて縮まってくるような気がして胸が苦しくなった。俺は声を放って泣いた。助かったのに。その俺をお主は家まで送ってくれたんだ。そんな君を僕が斬れると思うか。 「世界が哀しみに満ちて」という使い古された詞語に出逢った途端、それまで鳴り響いていたガチャガチャやかましいパンクロック(あるいは町田町蔵による「INU」というバンドのうるさい音だとか)に代わり、ルー・リードの哀愁が顔を出す。なんてことは読んでいる時は別に思わなかったけれど、今読むとそういう効果も、狙っているのかどうかは知らないけれど感じられる。 真面目な人には勧めない。 株式会社マガジンハウス 2004年 読了本メモ 田淵四郎「ある熱帯医の記録」(中公新書) 三田村泰助「宦官 側近政治の構造」(中公新書) 中山典之「囲碁の世界」(岩波新書) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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