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2022/02/05
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カテゴリ:📚 BOOKS 📖
出自育ちが悪く自堕落な生活を習慣化している
と無様に早死にする
良い例を学んだ。
無事是名馬也。

代表作【苦役列車】だけは再放送映画を見た事が
有るが後味の悪い重苦しさだけが残った。

人生の無駄な時間を過ごしてしまったようだ。​

​ぶら○特有の不気味な風貌が印象的だった西村賢太。
作風も汚泥に咲いたおどろおどろしい毒花だ。
泥中に咲いた蓮
​​​​とはいかない。​

訃報の知らせを聞き、風俗へ行き貴ノ浪/音羽山親方
のように女性との情交の挙句で腹上死に至ったかと

一瞬脳裏を過った。
報道ではtaxi​​🚖​​乗車中に意識を失い死んだという。​

​​西村賢太らしい無様でしかも迷惑千万な最期だ。
taxi🚖の運転手は料金と病院搬送費用
🏥が自腹か
会社負担と成ったかは不明だ。
とんだ災難と恥をばら撒いてこの世から去って行った。​どうせ前科2犯の犯罪者が長生きしても碌な事は
無いだろう。もっと早くに​
​​​逝って良し​​​‼​​​ 
​7件の強盗、婦女強■姦を繰り返した凶悪性犯罪者
為我井節男のDNAを受け継ぐ劣悪かつ醜悪なブ男に​
🙏
​​虫唾が走る希少種の蛆虫ような​♂​だった。
詰まらん私小説しか書けない浅学非才の物書なのだから、無様な醜態を
晒し此の世を去る前に鬼畜為我井節男と自身の生い立ちを題材とした作品
を上梓して欲しかった
​📚

数日前に一足先に鬼籍に入った石原慎太郎への追悼文
新聞に寄稿していた様だ。
石原も大変な同業者に好かれたものだ。
石原が自身諸共西村賢太を地獄へ道連れにして人生の
終局へ引導したならば敬意を払い、最後の業績に衷心
より謝意を表したい。




芥川賞作家の西村賢太さん死去 「苦役列車」「暗渠の宿」
共同通信社 2022/02/05 15:48
破滅型の私小説で知られる芥川賞作家の西村賢太(にしむら・けんた)さんが5日朝、東京都内の病院で死去した。54歳。東京都出身。
 中学卒業後、アルバイトで生計を立てながら小説を執筆。2007年に「暗渠の宿」で野間文芸新人賞、11年に「苦役列車」で芥川賞を受けた。

受賞決定後の記者会見での破天荒な発言が注目され、同作はベストセラーに。他の著書に「小銭をかぞえる」「どうで死ぬ身の一踊り」など。

 大正時代に活動した作家藤沢清造に心酔し、小説集出版に尽力した。
 関係者によると、4日夜、タクシー乗車中に意識を失い病院に搬送されていた。

​​​Wikipedia​
​幼少期​​​​​

​​​​​​​​​東京都江戸川区春江町出身[3]。祖父の代から続く運送業者の家庭に生まれる。実家は下請け仕事が中心で、トラック3台、従業員は最盛期でも4人の零細企業だった[3]。父は外車マニアで、数年ごとにジャガーやカマロやクーガーなどを買い換えていたが[3][4]、👉1978年秋強盗強■姦事件を起こして逮捕され、刑務所に収監される。このため両親が離婚し、3歳上の姉と共に母子家庭で育つ。​
👉​​合計7件の強盗強■姦事件加えて脅迫、公務執行妨害、致傷罪。                        
​​

​​​​​​​


​実父  為我井節男 逮捕現場​




読書好きな姉の影響で、幼児期から『赤毛のアン』『キュリー夫人』などを読み、活字に親しんでいた[5]と発言したとされているが、その後本人は「一回も読んだことがない」と取材で語っている[6]。江戸川区立二之江第二小学校5年の2学期に千葉県船橋市原木中山へ転居し、さらに小学校6年に進級する春休み中に東京都町田市のコーポへ転居[3]。

少年時代
それまでは父が単なる強盗事件を起こしたと聞かされていたが、町田市立中学校3年の時、父が起こした事件が性犯罪だったことを知り、その衝撃で2学期頃から不登校となる[3]。国語を除くと成績は「1」ばかりでローマ字も書けず、高校は全寮制の東京都立秋川高等学校しか行くところがないと教師に宣告されたが、寮に入るのを嫌って進学せず[7]、家を出て東京鶯谷の家賃8000円のアパートに下宿。


アルバイトに明け暮れていたようだが[8]、家賃を4か月滞納したまま1年半で鶯谷のアパートから強制退去処分を受け、飯田橋、横浜市戸部町、豊島区要町、板橋などでトイレや風呂のない一間のアパートに住み、家賃滞納と強制退去を繰り返す[3]。この間、港湾荷役や酒屋の小僧、警備員などの肉体労働で生計を立てていた。1990年頃には品川の屠場で働いたこともあるが、「あまりのきつさに音を上げて一日でやめてしまった」という[9]。
傍ら、16歳頃から神田神保町の古本屋に通い、戦後の探偵小説の初版本などを集めていたが[3]、土屋隆夫の『泥の文学碑』を通じ田中英光の生涯を知ってから私小説に傾倒。1994年より1996年まで私家版『田中英光私研究』全8冊を刊行、この研究書の第7輯に私小説「室戸岬へ」を発表。第8輯にも私小説「野狐忌」を発表している。田中英光研究から離れた理由については「田中英光は、結局、一種のエリートなんですよ。そこでもう、なんか、そこでこう、もの足りないものを感じた」[10] と語っている。

​青年時代​
23歳で初めて藤澤清造の作品と出会った時は「ピンと来なかった」というが、29歳の時、酒に酔って人を殴り、留置場に入った経験から清造に共鳴するようになり[3]、以来、清造の没後弟子を自称し、自費で朝日書林より刊行予定の藤澤清造全集(全5巻、別巻2)の個人編集を手掛けている。朝日書林の主人からは相当額の金銭的援助を受け、神田神保町のビルの一室を契約したとき費用を借りた他、「これまでにトータルで5、600万は借りてる」[3] という。

清造の墓標を貰い受けて自宅に保存している他、1997年頃から[3] 清造の月命日の毎月29日には清造の菩提寺の浄土宗西光寺(石川県七尾市)に墓参を欠かさない。2001年からは自ら西光寺に申し入れて「清造忌」を復活させた他、清造の墓の隣に自身の生前墓を建ててもいる。このエピソードがいくつかの作品において主人公の行動に擬して描かれているように、西村の作風は強烈な私小説である。また「瘡瘢旅行」で、敬愛する藤澤清造は「小説家」ではなく「私小説家」だと呼んでいる。


​小説家としての活動​
2003年夏、同人雑誌『煉瓦』に参加して小説を書き始める。2004年、『煉瓦』第30号(同年7月)に発表した「けがれなき酒のへど」が『文學界』12月号に転載され、同誌の下半期同人雑誌優秀作に選出される。同年に『煉瓦』を退会。
2006年、「どうで死ぬ身の一踊り」で第134回芥川賞候補、「一夜」で第32回川端康成文学賞候補、『どうで死ぬ身の一踊り』で第19回三島由紀夫賞候補となる。2007年、『暗渠の宿』で第29回野間文芸新人賞受賞。2008年、「小銭をかぞえる」で第138回芥川賞候補。2009年、「廃疾かかえて」で第35回川端康成文学賞候補。
2011年、「苦役列車」で第144回芥川賞受賞。芥川賞受賞後の2011年7月には、「この受賞の流れを逃したら次はない」[11] という自身の提案で新潮社から清造の代表作『根津権現裏』を新潮文庫より復刊させた。2012年には同文庫より、自ら編集した「藤澤清造短篇集」を刊行。芥川賞受賞会見における「そろそろ風俗に行こうかなと思っていた」との発言が話題を呼び[12]、同賞受賞以後のマネジメントはワタナベエンターテインメント[13]。




2012年10月2日からTOKYO MXの『ニッポン・ダンディ』にレギュラー
出演していたが、2013年6月4日の放送で終了直後に突然降板する。「週刊アサヒ芸能」6月27日号および7月4日号の西村の連載コラム「したてに居丈高」で、かねてより番組スタッフとMCの段取りの悪さに不満を募らせ続けており、それがこの日の我慢のならぬ段取りと進行が重なったことによって爆発した、との動機が明かされている[14][15]。

​死去​
2022年2月4日夜、タクシー乗車中に意識を失い病院に搬送され、翌5日、東京都内の病院で死去。死因は報じられていない。54歳没[1][16]。

事件・問題

​暴行による罰金刑​
​​​​​​​​​​25歳頃にアルバイト先の同僚と揉め、止めに入った警官を誤って殴り逮捕され、略式起訴を経て10万円の罰金刑を受ける[17]。また、29歳の時には​飲食店で​酔って他の客に絡んで暴力をふるい​​再び逮捕され、10日間留置され[18]、東京簡易裁判所で罰金20万円[19] の有罪判決を受けた[17]。​​​​​​​​​​

​Twitterなりすまし事件​
2013年11月頃から、ツイッター上に西村のなりすましが現われる。即時ワタナベエンターテインメントのサイト上で、本人によるものではない旨のアナウンスが発表される。西村の連載コラム「したてに居丈高」(『週刊アサヒ芸能』2013年12月19日号)はこの件について、「私は現在も過去にも未来にも、そうしたものは一切行っていないし、行うつもりも全くない。何が楽しくて、金に換わらぬ無料サービスの文章を書く必要があろうか」と突き放している[20]。

​逸話​
作品に度々登場する同棲相手の「秋恵」には実在のモデルがいるが、モデル問題で提訴されることを恐れているため、モデルとなった女性の性格・出身地・年齢・外見などはことごとく変えてある[7]。
ミュージシャン稲垣潤一の大ファンで、ライブによく足を運んでおり稲垣のファンの間でも有名な存在である[21]。
石原慎太郎の著作を十代の頃から愛読しており、「自分にとっての信用できる作家であった」とのこと。「石原氏の政治家としての面には毫も興味を持てなかった」ものの、石原の作や政治発言と、西村が石原に敬意を抱くきっかけとなった初期の随筆『価値紊乱者の光栄』中の主張が一貫している点に、「私としては小説家としての氏への敬意も変ずることはなかった」と石原逝去後に述べていた。また石原との初対面の際に開口一番向けられた「お互い、インテリヤクザ同志だな」との言葉の真意については石原逝去まで尋ねることが出来なかったという[22]。​​​​​​​​​

芥川賞作家・西村賢太さん急死 54歳
関係者「長年、痛風、腰痛に苦しんでいた」

スポーツニッポン新聞社 2022/02/06 05:30
​破滅型の私小説で知られ、2011年に「苦役列車」で芥川賞を受賞した作家の西村賢太(にしむら・けんた)さんが5日午前6時32分、東京都北区の病院で死去した。54歳。東京都出身。4日夜、タクシー乗車中に意識を失い病院に搬送されていた。10代の頃から石原慎太郎さん(享年89)の作品を愛読。1日の訃報を受け、新聞に追悼文を寄せていた。​

​ 西村さんは4日夜、北区赤羽から乗車したタクシー内で具合が悪くなり、そのまま病院に運び込まれた際には心肺停止の状態。医師が蘇生措置を試みるなどしたが、帰らぬ人となった。警察が死因などを調べている。関係者によると「長年、痛風、腰痛に苦しんでいた」という。​



 中学卒業後、肉体労働などのアルバイトをしながら小説を執筆し、07年に「暗渠(あんきょ)の宿」で野間文芸新人賞を受けた。11年には日雇い仕事で生計を立て、暴力的な言動を抑えられない若者「北町貫多」の生きざまを描いた「苦役列車」で芥川賞を受賞した。
 記者会見で決定の知らせを受けた時の状況を聞かれ「自宅で(待っていた)。そろそろ風俗に行こうかなと。行かなくて良かったです」と型破りな受け答えをし、会場は大爆笑。さらに注目を集め、同作はベストセラーになった。「苦役列車」とそのシリーズの主人公で、多くの読者の心をつかんだ「北町貫多」。酒癖が悪く性欲旺盛、金にルーズな俗悪人物にして私小説作家という設定だが、これは自身の分身だった。
 大きな影響を受けたのが、20代で作品に出合い心酔した大正期の作家、藤沢清造。貧困と病苦に見舞われた主人公を描いた長編私小説「根津権現裏」で知られる。「僕よりダメな人がいて、それで救われた」という西村さんは「没後弟子」を自称。小説集出版にも尽力した。「北町貫多」もその信奉者として描かれていた。


 藤沢の菩提(ぼだい)寺である石川県七尾市の西光寺に命日と月命日に墓参。25年以上も続けており、没後90年となった先月29日にも足を運び、酒を供え手を合わせていた。住職によると「コロナ下でも自分は必ず来るから」と話し、30~40分、語り掛ける様子で墓の前にいた。本堂では座布団を下げて床に正座し、住職のお経を聞いていたという。
 20年ほど前に藤沢の墓の隣に自らの生前墓を建立。墓石に刻まれた名前は、藤沢の直筆資料から1字ずつ探して写したものを彫ったという。高さは藤沢のものより少し低くしてあった。住職は「師匠を立てたのでしょう。まだ若く残念ですが、藤沢先生の隣で眠ることができて、安心しているのではないでしょうか」と話した。西村さんの担当編集者は、葬儀について「ご遺族の意思となります。ご遺族が見つからない場合は、北区にてご対応をお願いすることになります」としている。



 ◇西村 賢太(にしむら・けんた)1967年(昭42)7月12日生まれ、東京都出身。同人誌に発表した「けがれなき酒のへど」が2004年に文芸誌「文学界」に転載されデビュー。11年の芥川賞受賞作「苦役列車」は、その翌年に森山未來主演で映画化もされた。他の作品に「小銭をかぞえる」「どうで死ぬ身の一踊り」「歪んだ忌日」「芝公園六角堂跡」など。独特な飲食の風景や知人への憤りなどを書き連ねたエッセー「一私小説書きの日乗」シリーズも人気を集めた。



芥川賞作家「ネットで格差社会恨む人は努力してないだけ」
2011.08.16 16:00  NEWSポストセブン
芥川賞作家・西村賢太氏はネット界で絶大な人気を誇る。中卒で働いてきて44歳で芥川賞受賞。「格差社会のヒーロー」という呼び声に本人はどう考えているのか。連続インタビューの第2回。(聞き手=神田憲行)
--西村さんの生い立ちから、「格差社会のヒーロー」という見方があります。
​西村:うーん、ネットで格差社会恨んでいる人って、たんに努力していないだけでしょう(笑)。自分なりの努力をしていない。ネットにかじりついている暇があったら窓をあけて外の世界を眺め、自分の胸に手を当てて越しかた行く末について考えた方が良いんじゃないかな(笑)。​
--すいません、怠け者の北町貫多のモデルのお言葉とは思えませんが(笑)。
西村:いやいや、貫多も僕も努力できない人間なんですよ。だからわかるんです。
それに小説界も格差社会ですよ。小説の実力云々というより、上の引きとか作家同士の関係性で小説の判断がされてしまう。誰が気に入るとか気に入らないとか、それだけで小説の格差が付けられるのが、ここ10年くらい顕著ですね。
発言力ある作家は徒党を組み、配下の作家を推して、自分が興味のない作家については編集者に「あれはダメだ」とかささやく。それが小説の格差を生み出している元凶になっているし、実際僕自身もいろいろいわれています。そういう読者不在の雰囲気って違うんじゃないのかなと思いますね。
芥川のときも、選考委員の中には選評で僕について一言も触れていない人がいました。要するに「俺は認めないよ」という意思表示ですね。僕のことを面白くないのは人それぞれですが、その往生際の悪さは不快であることはたしかです。でもテレビでその作家の悪口をいうと全部カットですから(笑)。

--意外と評判を気にされる?
西村:いちいち腹立っていますよ(笑)。批判した作家や自称評論家は一生恨みに思いますしね。​執念深さにはおいては、人後に落ちない自信があります。​
​だから今までの恨みのある奴は必ず小説のなかでdisるようにしているんです。見た目の描写とか、わかる人にだけわかるように仕掛けを作って。主人公の台詞に仮託して、あからさまにそいつを批判するということもよくやっています。​
​​相手は編集者とか作家・評論家とか……その芥川賞のロンパリ元選考委員はこれからですね!たっぷりと楽しませてもらいます。​
--そんな禍々しいこと明るく言われると逆に怖いです(笑)。
​​​​​​​​​


​​​​「ダメな人のヒーロー」でなかった芥川賞作家 年収480万円もあったとネットで失望広がる2012年3月6日 19時44分 J-CASTニュース
「ダメな人のヒーロー」だとネットでもてはやされた芥川賞作家の西村賢太さん(44)がテレビ出演し、女性観や、風俗店について語り、予想通りそのダメっぷりで会場を引かせたが、ネットでは、芥川賞受賞前の年収が480万円とわかると雰囲気が一変。「俺達の仲間ではなかった」などと失望が広がることになった。
西村さんのイメージと言えば、中卒で職を転々。風俗店が大好きで借金しながらも通い続けている、などのイメージで語られていた。それでも作家になれて芥川賞を受賞。まさにダメ人間の希望の星のような存在、とされていた。
受賞したら年収10倍5200万円にアップ
「そろそろ風俗に行こうと思っていた」の発言で有名な西村さんは、2012年3月5日放送の「笑っていいとも!」に登場。受賞後の収入を聞かれると「年収が10倍になった」と明かした。年収480万円だったのが、過去の作品も売れたためなんと5200万円にもなったのだそうだ。
結婚はしないのか、という質問で、いつもの「西村節」が炸裂。
「嫁が老ける一方だから、結婚するのは損」
「家族を養うためにお金を使うのはナンセンス」
と語った。常に20歳くらいの若い女性との温もりを大切にしたいし、温もりが欲しくなった場合は
「僕の場合、デリヘルに行くんですけど・・・」
​と、「外に買いに行く」とした。有名になったことで、相手が自分を知っていたら「ノーマルプレイ」をし、知らなかった場合は「変態プレイ」になるという。​
自分で稼いだお金は全部自分で使うことに決めているそうだ。好きな女性にプレゼントをすることもあるが、​あくまで「女性の体が目当て」であり結局は自分のため。​
​「これ以上お金を使うのが惜しくなった時点で(女性とは)バイナラ!」​
するという。
相変わらずのダメっぷり、鬼畜っぷりで「笑っていいとも!」の会場や共演者は引きまくっていたが、一部ネットでは「俺達のヒーローではなかった」などと失望が広がっていた。賞受賞前の年収が480万円と「高額」なのがショック、ということだった。つまり、芥川賞を受賞するまで仕事らしい仕事はせずに、風俗通いをする自堕落な生活を送る「自分たちと同じ人種」と信じていたらしい。
「共喰い」田中慎弥もニートのような扱いになっている
実は、西村さんと芥川賞作家の高橋三千綱さんとの対談が11年4月に「東京スポーツ」で連載され、西村さんは「はなはだ迷惑だ」などと、マスコミが勝手に作り上げた自分の偶像を批判している。日雇い労働をしているというのも20年前の話。食えないときは夜の警備員や、古書業鑑札で生計を建て、また、いろんな人から借金しまくり過ごしてきたという。また、滞納していたとされる家賃は完済したそうだ。
西村さんは既に私小説のジャンルでは有名な作家で、芥川賞の候補にあがったのは受賞作を含め過去に3回。04年には「けがれなき酒のへど」で文学界同人雑誌優秀、07年には「暗渠の宿」で野間文芸新人賞を受賞している。年収480万円では少ないくらいなのだ。
ネットでは西村さんが作家として「高額」な収入を得ていたことに驚き、
「受賞前の年収480万と言ってた。ぜんぜんフリーターの額じゃないじゃん。萎えた」
「勝手に仲間だと思ってたけど、全然仲間じゃなかったw今ではさらに手の届かない存在www」
といった意見が出ていて、「ダメな人のヒーロー」とはいえないのではないか、といった論調に変わっている。
また、今年「共喰い」で第146回芥川賞を受賞した田中慎弥さんもマスコミでは「ニート」のような扱われ方をしているが、田中さんも実績のある作家だとして
「マスコミの言う事を鵜呑みにしちゃだめだって。あいつら芥川賞をワイドショーにしたいだけなんだから」
などといった反省も書き込まれている。






​​​​【新春インタビュー】​​
​​芥川賞作家・西村賢太「僕は“仕方がない”から風俗に行っているんです」
​週プレNews2014年1月3日 16:00​​​​​​​

2011年、芥川賞受賞会見の際に発した名言(迷言?)、「そろそろ風俗でも行こうかな」で話題を集めた小説家・西村賢太氏。あれから3年経った今でも彼は、風俗に通い続けている。
 しかし、有名になったこと、年齢を重ねたことでその習慣にも“ある変化”が生まれているそうだ。
■女のコに正体がバレたら、ハードなプレイがしにくくなるでしょう?
――最近はどれくらいのペースで風俗に通っているんですか?
西村:もっぱら、月2、3回ぐらいでホテトルに通っています。事前に『東スポ』や『アサ芸』の風俗ページの広告欄を見て、3万~3万5000円のコースをよく選びますね。

――今や西村さんは芥川賞作家の有名人です。風俗遊びもしづらくなってるのでは?
西村:いやいや、もう今さらという感じなんで、周りからどう見られても構わないと思っていますよ。でも、芥川賞を獲った直後に風俗に行ったときはさすがに警戒しました。こっちの正体が女のコにバレてたら、人格が疑われるような変な強要プレイはできないでしょう? 風俗で働くコって、意外と口が軽いところあるんですよ。聞いてもいないのに、「昨日、有名人の○○が来た」とか平気でバラしますからね。だから、最初にそれとなく小説の話を振ってみたんです。そしたら、小説なんてまったく興味がないという反応だったので、「あ、これならイイや」と(笑)。
――なるほど。ちなみに、西村さんはどんなタイプの女のコがお好みで?
西村:私はサービスよりもルックス重視。マジメで大人しそうな黒髪の女のコが好みですね。ケバいのはダメ。茶髪だったり、顔が黒っぽかったり、化粧が濃すぎたりすると、気持ち悪い生き物に見えて生理的に受けつけないんですよ。まぁ、そうはいっても、店に予約の電話を入れるときに「黒髪のコ」とか「OL風のコ」と自分の好みを伝えたところで、その通りに来た試しはないですけどね(苦笑)。
――好みに合わないコが来た場合、“チェンジ”したりするんですか?
西村:酷い女が来てもチェンジはしません。というか、できないですよ。バックに怖い人たちがついているんじゃないかという恐怖感がありますから(苦笑)。現に、最近仲良くさせてもらっているタレントの話ですが、ホテヘルで「写真と顔が違う」からと何度もチェンジを繰り返したらその店の人に「ホントに遊ぶ気あんのか、てめえっ!!」って激怒されたそうです。
――ボク、それとまったく同じ体験談を持ってます……。
西村:やっぱり、3回くらいチェンジして(笑)?
――はい。秋田のデリヘルで、宿泊先のビジネスホテルに呼んだんですが、最初のコが写真と別人で、二人目が死んだ魚の目をしていて、三人目が風邪をひいたオバちゃんで……。3回チェンジしたら、「いい加減にしろ!! キャンセルはもう許さんからな!!」って言われて最後に送りつけられたのが二人目のコだったんです。あのときの60分間は地獄でした。
西村:そこはもう勉強代ですよね(苦笑)。ボクだって、本当はチェンジしたい気持ちになることはあるけど、上を見たらキリないでしょう。だから、写真指名はあまりしないようにしているんです。その方が先入観を持たずに済むので、タイプと違うコが来ても諦めがつきやすい。そのときは完全にマグロになります。
■風俗に行くのは“やむを得ない”
――西村さんはいつもホテヘルでどんなプレイを楽しんでいるのですか?
西村:最近は、ストーリー性を持たせて遊ぶことが多いですね。風俗って、毎回違う女のコが来るけども、結局、やることは一緒でしょ? その流れを変えるために、自分の願望をストーリーにして、ホテトルの女のコに演じてもらうようにしているんです。
――ストーリーというと?
西村:まぁ、ボクが高校の先生になっていることが多いですね。放課後の教室に生徒(ホテトルの女のコ)が残っているところを、ボクがねっちょりとセクハラするんです(笑)。あ、プレイ前には必ず女のコに「これからボク、ものすごく汚い言葉を使うけれども、これはお芝居だから怒らないでね」と言っておくことも忘れません。
――JK好きなんですね(苦笑)。他にはどんなストーリーが?
​​​​​​西村:たまに​強盗犯​になります。ある昼下がり、一軒家へ強盗に入ると、学校から帰って来た娘(ホテトルの女のコ)がリビングのソファで昼寝をしているんです。​強盗に押し入ったついでにそこを襲う​っていうバージョンですね。「​大人しくしてれば命だけは助けてやるぞ、ブス!​」とか言って(笑)。

​鬼畜連続強盗強■姦魔​ 実父為我井節男の血は争えない。最後の件は
 実父が7人のホステスに対して吐いたセリフだろう。刃物を突き付け
 ガムテープで目と口を塞ぎ、金品を奪った後でやってみたのか❓
 変態性欲者、気違い西村賢太。
​​​​​

――それは楽しそうですね。ちなみにプレイ中にクンニはなさるんですか?
西村:10~30代の頃はどんな相手だろうと舐めていましたが、最近はよっぽど若くて可愛いコじゃないとクンニはやらなくなりましたね。あるハリウッド俳優がクンニのしすぎで喉頭ガンになったっていう話があったじゃないですか。で、「このままだと俺もガンになる」と思ったんです。もう手遅れかもしれませんが、それ以来、怖くなって自粛するようになったんですよ(苦笑)。
――でも、風俗好きな男の中には、風俗嬢と恋人気分を味わうために、クンニで相手を気持ちよくさせ、あわよくば、店外デート……って考えている人もきっと多いハズ。
西村:ボクも、30代前半までは風俗で恋人を見つけようとしていました。でも、ことごとくダメで、風俗に恋愛感情を持ちこむなんて自分を虚しくさせるだけだと気がついたんです。特定の女のコに入れ込むと、風俗に行く頻度が多くなるので金も掛かりますし……。それより、割り切って動物的に接している方が後腐れなくていいでしょう。風俗なんて、体の良いオ■ニーと同じですから。
――達観してますね。
西村:もう恋愛とかどうでもよくなっちゃった(笑)。結局、ヤレればプロセス(恋愛)なんて要らないんです。でも、ボクには嫁も彼女もおりません。〝性■欲を処理できる相手〟がいないので、やむをえず風俗に行っている部分があるんですよ。
■勃たなくなっても、風俗には通います
――そもそも、西村さんが風俗に目覚めたのはいつ頃なんですか?
​​​西村:15歳のときです。中学を卒業して一人暮らしを始め、最初に行ったのが​池袋のソープランド​でした。その店にしばらくして通い、次に金町(東京・葛飾区)の〝1万円ソープ〟に足を運ぶようになって……。ものすごく女のコのレベルは低かったですが、気がついたら風俗にはまっていましたね。
​​​
​​​
☛​
池袋であれば夢幻、優雅などか、金町ではヤングレディ―、角海老
 だろう(昭和後期から平成初頭)
​​​


――15歳で風俗デビュー。しかも初っ端からソープですかっ! さすがです。
​​西村:当時のボクは、中学時代の同級生よりも先んじて〝女体を知りたい〟という焦りに駆られていたんです。そうしないと自分のプライドが保てないと本気で思ってた。周りはみんな高校に進学したのに、ボクだけが中卒でしたからね。今から思えば〝せめて女だけはこいつらより先に知らないと〟っていう変な見栄があったんだと思います。

​​
​​​☛​地獄へ同級生より逸早く4、50年も先んじて堕ちたわけだ。
​​

――長い風俗歴の中で忘れられない女のコを一人挙げるとしたら?
西村:31歳のとき、地方のホテヘルでお相手してもらった女のコですね。顔がドンピシャ、ボクのタイプ。でも、プレイ中に借金の相談を受け、90万円ほど肩代わりしてあげたら、その後、音信不通になってしまい……という体験談をそのまま『けがれなき酒のへど』という作品に投影し、同人誌に発表したら、予想外の評価を受けて『文學界』に転載されたんです。これがボクのデビュー作にもなりました。デビューのきっかけを与えてくれたという意味でも、そのとき出逢った〝ふざけたホテヘル嬢〟は忘れられませんね。
――ステキな風俗談ですね。最後に、巷では20代・男性の“風俗離れ”が進んでいるなんて言われています。そんな若者に言いたいことはありますか?
西村:今どきのコは風俗に行かなくなっているんですね……。話が少し逸れますが、ボク、これまで何度か警察のご厄介になっているんですよ。最後に捕まったのが29歳のとき。20代の頃は毎日センズリこいてたんですが、そのときは10日間留置されて〝オナ禁〟を強いられたんですよ。そこを何とかこらえて出所すると、もう風俗に行きたくて行きたくて仕方がなかった。でも、店まで行く時間がガマンできなくて、結局、自分で抜いたんです。
――何の話ですか(笑)
西村:若者が風俗に行かないというなら、とりあえず10日間、〝オナ禁〟しなさい。そのうえで騙されたと思って風俗に行ってみてください。人生が変わると思います。

――西村さんは、いつまで風俗通いを続けるつもりなんですか?
西村:歳も歳なんで風俗に行く間隔は空くでしょうけど……、70歳になって、勃たなくなっても、そこは通い続けると思います。
――勃たなくなっても!?
西村:ホテヘルのコに言わせれば、勃たなくても「添い寝だけしてください」って言うおじいちゃんが結構いるようなんです。勃たなくても、ちゃんと汁は出るみたいで(苦笑)。それで、イッた瞬間におじいちゃんは言葉では表せないような、とても幸せそうな顔をするんだそう……。ボクもその感覚を味わってみたいですね。
(撮影/井上太郎)
●西村賢太(にしむら・けんた)
1967年生まれ、東京都出身。小説家。2007年『暗渠の宿』で野間文芸新人賞、2011年に『苦役列車』(新潮社)で芥川賞を受賞。他に『小銭をかぞえる』(文藝春秋)、『歪んだ忌日』(新潮社)などの著作がある




​​​​「クサいものにはどんどん蓋をしていく」作家・西村賢太と山田ルイ53世が語る中年の生き方 週刊SPA!編集部 2021年06月12日
[中年のお悩み白書]―
「四十にして惑わず、五十にして天命を知る」とは『論語』の一節だが、コロナ禍でまったく未来が見えない暗闇を歩く中年世代。これから一体、何を道しるべに生きていけばいいのか? 現役中年世代の作家・西村賢太氏(53歳)とコラムニストとしても活躍する芸人・山田ルイ53世氏(46歳)が、現代の中年の生き様を語り合った。
「50歳から『真剣に生きる』ようになった」西村賢太
西村賢太氏

​​​☛次第に鬼畜強盗強■姦魔為我井節男に似て来た。目元、頬、口元...
 鬼畜の血は争えない。【1978年当時新聞報道と比較参照】
西村:僕は(芥川賞を受賞した)40代のときはものすごく元気だったんです。しかし、50代に入ると気持ちに変化が出てきた。先が見えて、今後自分の人生に劇的な変化が起こらないことも、くっきり見えてしまった。​​​

 気力や体力が今のレベルを保っていられるのは、運が良くてせいぜい10年。もう人生の日は暮れようとしている。それなのに、まだ書きたいことは山ほどあるし、何も残せていない。そう思い至ったとき、50歳になって、ようやく「真剣に生きる」ことを具体的に意識し始めたんです。
山田:夏休みの最後の1週間になって、めちゃめちゃ宿題頑張るみたいな感じですね。中年になって考え方が変わったという点では、僕も同じかもしれません。30代の頃は「俺は一発屋じゃない。このまま終わるわけがない!」という反骨心がまだありましたが、40歳を過ぎてからは、「もう、冷蔵庫の中のありもんでやるしかない」というふうに変わりました。
 でも、それは決して悪いことじゃないと思うんです。「年を重ねること=自分の可能性を潰していくこと」と気づいたとき、「じゃあ、自分にできることを丁寧にやるしかない」と肩の荷が下りたような気がしました。自分から“一発屋”と言えるようになったのも中年に差しかかってから。「諦めること」って、人生においてはすごく大切な要素だと思います。
西村:可能性や多様性のあることが一概に善であるかのような風潮は、ちょっと違うと思いますね。事と次第によります。人生の残り時間が少なくなって「小説以外の興味は何もない」と改めて自覚したときに、他の一切が無駄に思えて、切り捨てることができました。
「『趣味は生きること』で、何も悪くない」山田ルイ53世
山田:ワークライフバランスという言葉も、「仕事はほどほどにする代わりに、家庭や趣味を充実させてね」って圧というか「結局充実させなアカンの?」と思ってしまう。
 自分は中学2年生から6年間ひきこもっていたのですが、そういう話をすると決まって、「やっぱりその時期があったから、今があるんですよね!」みたいに言われる。でも、今でもその6年間は“完全なる無”だったと後悔しています。あくまで自分の場合はですが。
 何でもポジティブ変換というのもしんどい。別に仕事もやれることはやればいいし、趣味だってなくてもいい。週末もキラキラしてない、でも生きてる。それでいいじゃないですか。
西村:向上心や好奇心って、そんなに持たないといけないものなのでしょうか? 僕の場合、家庭の事情で中学を卒業した2日後に家出をし、そこから職と住を転々としましたが、生活するだけで精いっぱいで、「人生を充実させよう」なんて思う暇もなく年をとりました。お金だっていまだに貯金もなく、毎日生きていくのがやっとだけれど、別に不安や不満はないですよ。
山田:そもそも「生きる」って、結構大変じゃないですか。だから、西村先生や自分なんかは、旅行でもスポーツでもなく「生きることが趣味」という感覚ですね(笑)。
可視化よりも不可視化
山田ルイ53世氏

西村:と、そんな達観したように言っていますが、達観どころか、結構エゴサーチとかもしてしまうんですよ。
山田:本当ですか!? まったくそんなふうに見えませんでした。
西村:でね、こんな感想を言う人がいる。「作家だったら自分のことばかり書かずに、もっと世の中や他人の人生を書け」と。私小説看板の書き手には的外れすぎることを、悪意なのかなんなのか、普通に書き込む手合いが案外に多いですなあ。
山田:まったく見当違いのことを自信満々に言い切る人、いらっしゃいますね。僕はエゴサーチして、「嫌なことが書いてありそうやな」と思ったら、すぐ見ないようにします。
 今、何でも「可視化」と言われていますが、中年にとっては「不可視化」も大事なんじゃないかと思います。クサいものには、どんどん蓋をしていく。だってクサいから(笑)。昔は、「なにくそ!」と怒りや妬み嫉みをガソリンにしていましたが、中年になると燃費が悪すぎてしんどい。
「私小説以外を書け」と言ってきた人って、おそらく中年かそれより上の世代の人だと思うのですが、めちゃくちゃ燃費の悪い生き方をしていると思います。もうもうと黒煙が立ち込めて、自分自身の姿が見えないくらい。
忘却力こそ中年の武器
西村:僕自身はSNSはまったくやりませんが、スマホで育った世代でもないのに、スマホ上でエキサイトしている中高年たちを見ると、正直、気味が悪い。偏った価値観を押しつける人が多すぎるし、「ネットの声」を変に重用する人も多すぎます。どちらも、みっともない。
山田:結局、「どっちについたら勝ち目あるか? マウント取れるか?」みたいな部分があって、「ほんとにご自身がそう思ってるの?」と。
西村:自分自身と向き合うのも精いっぱいなのに、他人の勝手な価値観に影響されるのなんてまっぴらです。僕は自分の書いた小説すら、書き終わると同時に忘れ去るくらいですから。「もっといい作品にできたはずなのに」などとネガティブな感情が湧くでしょう。もう、その時点で辛い。
山田:自分も現場が終わったら、一目散に忘れます(笑)。若い頃は「もっと爪痕残さなアカンかったのに!」と悔しい思いをエネルギーにしていましたが、中年になると耐えられない。「忘却力」こそが、中年の武器です。
いつまで生きたいと思いますか?
山田:我々、人生の日暮れの中年世代ですが、西村先生はいつまで生きたいと思いますか?
西村:僕は独り身なので、なんの責任もありません。だから、小説が書ける限り、という感じですね。書けなくなったときが死ぬときでいい。
山田:なんかカッコいい! 自分も長生きに興味はありませんが、小学3年生と2歳の2人の娘がいるので、少なくとも彼女たちが成人するまでは生きなければ、と思っています。
西村:それは本当に立派ですよ。
山田:子供に生かされている状態です。逆に、西村先生のように「小説を書くことが生きがい」と言い切れるものがなく、子供もいなかったら、「人生100年時代」なんて、ちょっとぞっとします。
ハッピーエンドな不老不死なんてない
西村:長生きも必ずしも善ではありませんね。未練がましくただ生きているだけでは、恥をかくだけだし。
山田:不老不死の物語でハッピーエンドのやつ、見たことないですもん。大抵、バッドエンド。まだ娘に父親が芸人であることを明かしていないのですが、成人式の後にレストランに連れていって、ワインを頼もうと思っているんです。「あれ、パパはいつもウイスキーしか飲んでいないのに、今日はなんでワイン?」と娘が訝しがっているところで、「成人おめでとう。ルネッサーンス!」とカミングアウトするのが、人生の最大の目標です。
西村:それは楽しい目標ですね。それこそ素晴らしい、良い人生の証しですよ。
【西村賢太氏】
’67年、東京都生まれ。30代半ばで小説を書き始め、’11年に『苦役列車』で第144回芥川賞受賞。近著に『瓦礫の死角』(講談社)、『一私小説書きの日乗 堅忍の章』(本の雑誌社)
【山田ルイ53世氏】
’75年、兵庫県生まれ。中高一貫の名門私立校からひきこもりを経て、’99年にお笑いコンビ「髭男爵」結成。文筆業も好評で、『一発屋芸人列伝』(新潮社)など著書多数
​<取材・文/週刊SPA!編集部>​




清造先生 見守ってて 芥川賞・西村賢太さん 合掌 

中日新聞 2022年1月30日 05時00分 (1月30日 12時08分更新)
七尾市出身の作家、藤沢清造(せいぞう)(一八八九〜一九三二年)の没後九十年の命日の二十九日、「清造忌」が同市小島町の菩提(ぼだい)寺・浄土宗西光寺で営まれ、藤沢に心酔する芥川賞作家、西村賢太さん(54)が墓前に手を合わせた。(大野沙羅)



 藤沢は同市馬出町に生まれ、高等小学校を卒業して上京。一九二二年に貧困と病苦の中に生きる主人公を描いた長編私小説「根津権現裏」を発表した。島崎藤村らに評価されたが、その後は作品に恵まれない生活を送り、困窮の果てに東京・芝公園で凍死した。
七尾に26年墓参「おかげで食えてる」
 西光寺には五三年に藤沢の墓碑が建立され、当時の住民有志が一度だけ追悼会を開いた。西村さんらはその意思を継ぎ、途絶えていた追悼会を二〇〇一年に「清造忌」として復活させた。命日に毎年一、二人が参列している。西村さん自身は、月命日と命日に欠かさず墓参りを始めて二十六年目。〇二年には藤沢の墓の隣に自らの生前墓を建てた。
 午後四時半すぎ、墓を訪れた西村さんは缶ビールや酒などを供え、手を合わせた。墓参りを終え「最初に来た時は二十五年前で、俺も年をとったが、清造先生も遠くに行きましたね」としのび、「作家になる前から毎月(墓参りを)やっていたから小説で食っていけているんじゃないかと思う。清造先生のおかげ」と話した。
 西村さんは今夏にも藤沢清造の随筆集を出版する予定という。











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作家・西村賢太さん 死因は心疾患 「苦役列車」で芥川賞
社会 速報 訃報 
毎日新聞 2022/2/11 06:30(最終更新 2/11 06:30)

​5日に54歳で死去した作家、西村賢太さんの死因が心疾患だったことが10日、分かった。関係者が明らかにした。 葬儀は近親者で営み、お別れの会は新型コロナウイルスの感染状況を見極めながら検討する。​


​​​​​​七尾の物語がいいですね 西村賢太さん急逝、本紙「土曜小説」
3日に執筆快諾 

「私ごときが」純朴にぽつり 北國新聞 2022/2/6 05:00







西村賢太さん遺骨 西光寺に

中日新聞 2022年2月17日 11時35分更新
作家・藤沢清造(七尾出身)墓の隣へ
 五日に五十四歳で急逝した芥川賞作家の西村賢太さんの葬儀が十六日、七尾市小島町の西光寺であった。西村さんは七尾出身の作家藤沢清造(せいぞう)(一八八九〜一九三二年)に心酔し、寺の境内にある藤沢の墓の隣に生前墓を建てていた。十五日に寺に遺骨が届いたため高僧(こうそう)英淳住職(69)が葬儀を執り行い、藤沢の遠縁の藤沢外吉さん(76)と早すぎる死を悼んだ。


 葬儀では高僧住職が読経し、外吉さんが手を合わせた。西村さんの随筆集「一私小説書きの弁」の叙述通り、本人が希望したたばこや乳酸飲料などを遺影と遺骨の前に供えた外吉さんは「この前まで元気やったが。俺の女房に土産までくれた。ありがとうな」と声を詰まらせ、「あんまり早すぎたね。俺より二十二も若い。思い出しては夜眠れなくなってしまった」と肩を落とした。高僧住職は十五日午後に東京の葬儀会社から遺骨が届き、すぐ葬儀の準備に。戒名は「賢光院清心貫道居士(けんこういんせいしんかんどうこじ)」。藤沢の「清光院春誉一道居士(せいこういんしゅんよいつどうこじ)」と同じ文字を入れ「清らかな心を持っていた」との意味を込めた。「藤沢に対しては最初から最後まで礼儀を通していた。普通の人じゃまねできないような、頭の良い人だった」と評した。
 納骨は二十五日以降の予定。外吉さんは西村さんの遺志を継ぎ、体が元気なうちは藤沢の命日の追悼会「清造忌」を続けたいと話した。









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最終更新日  2023/04/10 09:09:49 PM
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