ある碁会所での出来事
国枝は学生時代に囲碁部に入部し、何度か囲碁大会に出場したことがあったが、ほとんど補欠での出場であり、いつまで経っても万年四段のままで凍り付いていた。だから就職と同時に囲碁の世界からは、きっぱり足を洗っていたつもりだった。ところが定年後にたまたま碁会所に行ったところ、初段から四段くらいの老人たちばかりで、なんと連戦連勝の快挙が続き席亭からも煽てられているうちに、再び囲碁の虜となってしまった。 この碁会所では席亭が手合いの都度に対戦相手を決めてくれるので、いろいろな人と対戦できるのが嬉しいのだが、時折り余り好ましくない人物と遭遇することもある。今日もそんな悪日のようで、最初の対戦相手がいつも口三味線がやかましくて時折「待った」迄するおばちゃんだった。まだ一級程度のくせに石を置くのを嫌がるから仕方なくタイで打ってやっているのだが、当然全く勝負にならない。そのくせあのときああすれば、これほど負けなかったなど分かったような言い訳ばかりで全く可愛げがないのだ。 このおばちゃんとは適当に切り上げてつぎの対戦相手に変わったのだが、今度はおばちゃんよりもっと苦手な強面爺さんであった。この爺さんは国枝と同じ四段という触れ込みなのだが、年を取ったせいか実力はせいぜい二段程度。そのくせ能書きが多く自分より格下に対してはいつも威張り散らしている。さらにちよっと長考すると「早く打て!」と大声で怒鳴るので、その恫喝がらみのド迫力に国枝も負けそうになったことがあった。 爺さんは国枝を見るなり「お前はこの間俺に勝ったよな」と言いながら睨みつけるてくる。「さて私は覚えていませんが…」と国枝がとぼけると、「ふざけるな!俺はちゃんと覚えているぞ、今日は絶対に負けないからな!」とドスの利いた声で言い返す。 国枝はこんな輩が大嫌いで逃げ出したくなったが、なんとか辛抱して打ち続けているうちに、かなり優勢な局面まで持ち込んだ。するととこの爺さんが大長考をし始めたのである。10分経っても15分経っても打つ気配がない。それでも国枝は我慢して待っていたのだが、なんと30分経っても打とうとしないのだ。 とうとう我慢しきれなくなった国枝が「いい加減に打ってもらえませんかね」と穏やかに呟いた瞬間、「うるせい!お前は人が考えているのを邪魔して勝とうというのか!」と大声で怒鳴りはじめた。これにはさすがの国枝もブチ切れてしまった。10個前後の碁石を掴み、盤面に叩きつけて「もう私の負けでいいです!」と声を張り上げて席を立った。それを見た爺さんが、「最近の若い者は、礼儀知らずで困ったものだ、さっさと帰れ!」と言う。 国枝がコートを着て碁会所を出ようとすると、一部始終を見ていたらしい席亭が慌てて飛んできた。「まあまあ国枝さん、申し訳ありません、もうあの人とは組み合わせませんから、どうか勘弁してください。それにいま新しく入会した人が待っているので、その人と対局してもらえませんか」と哀願するので、強面爺さんとは離れた場所に腰掛けることにした。 今度の相手もかなり年配のようで頭が真っ白だ。この白髪頭は自称三段と言うのだが、実力はせいぜい初段程度だ。どうも最近の段位はあてにならない。たぶん昔はもう少し強かったのかもしれないが、年を取って弱くなっても「昔の名前で出ています」なのだろう。 そんな訳でこの白髪頭も国枝の相手ではなかった。途中で目算しても国枝が30目以上は勝っている。だが白髪頭は全く投了する気がない。仕方なく最後まで打ち切って地合い計算をしたら、なんと国枝のほうが1目少ないではないか!。 ところがよく見ると、右下にあった国枝の地所が白髪頭の地所になっているではないか。囲碁は地所の多いほうの勝ちになるのだが、最終的に地合い計算をする場合、地所を計算し易くするために互いに相手の地所を整理する「整地作業」を行う。これは紳士的ゲームである囲碁ならではの、互いに相手を信頼することを前提としたルールなのだ。ところがこの白髪頭はその信頼を裏切り、整地するときに相手の地所を自分の地所に作り替えてしまったのではないか。「確か30目以上私のほうが勝っていたと思いますし、この右下は私の地所だったはずですよ!」と国枝が白髪頭を睨みつける。すると白髪頭が急に下を向き、頭を掻きながら「そうですかね、どうも最近年をとって間違えることがあるようです。すみません……」と言い訳をする。「こんなものを間違えるなら、囲碁なんか止めちまえ、本当はイカサマをしたのだろう!」と怒鳴り飛ばしたいのをじっと我慢して、国枝は席を立った。 今日はとんでもない悪日だ、今度こそさっさと帰ろう。と思う間もなく、またまた席亭がすっ飛んできて「国枝さん、もう一人だけお願いしますよ」と拝み倒されてしまった。今度の相手はどうやら小学生の女の子のようだ。彼女は席亭の知り合いの娘で、まだ小学2年生だが三段程度の実力があるという。 国枝は10手程度打ちまわしたところで、早くも彼女の実力を察知した。(これはうかうかしていると負けるかもしれない)そう思った国枝は久々に真剣に打つことになった。そのせいかミスもなく終盤まで打ち切り、ギリギリ1目の差で勝つことができたのである。 それにしてもマナーといい、見事な打ち回しといい、子供ながらに立派な態度であった。きっと1年後には国枝も勝てないだろう。だがなんと清々しくて気分がよいのだろう。それまでモヤモヤとしていた気持ちが、嘘のように晴れ渡っているではないか。国枝は心底嬉しくなり、彼女に「ありがとう」と言い残してやっと碁会所のドアを開けることができた。作:五林寺隆下記バナーをクリックすると、このブログのランキングが分かりますよ。またこのブログ記事が面白いと感じた方も、是非クリックお願い致します。にほんブログ村