主体と客体の合一な体験
聖フランチェスコの事を言わずして語れない前にもバーソロミューの書物の事について書いた事がありました。そのなかに聖フランチェスコが体験した事について、少し話せたらと思いました三昧とはどういうものなのか?それについて少し話せたらと思いました。悟った存在ではない自分がこんな事を言うのも烏滸がましいと思いますが、正しい坐相をねらって、思いを手放し雑念にふりまわされず、続けて行くと、普通の意識状態を超え、意識の限界に達した時、意識の境界線を越えて、最後に一瞬の飛躍があり、主体と客体の合一な体験をする事になるかもしれません。神人合一体験は不立文字です聖フランチェスコは愛したいけど、どうして愛したらいいのか解らないというジレンマ・・・・。全身が疑問のかたまりのようになって、何日も苦しみが続き、不安が増し、イライラと絶望がつのり、もうすぐ夜が明ける頃、外窓の向こうで、一羽の鳥が鳴いたそうです......。その鳥の歌声のパワーによって、ついに・・・・悟ったのです!!まず、聖フランチェスコは病床で、心の境界線が少しずつ崩れ、高熱にうなされる状態のなかでと言う事みたいですが、高熱の時は意識がとんとんとして、 心の境界線が少しずつ崩れてしまいそうですが、でも聖フランチェスコは狙っての事ではないのですが、偶然起こしたものだったと言うよりも?愛したいけど、どうして愛したらいいのか解らないというジレンマ・・・・。全身が疑問のかたまりのようになって、何日も苦しみが続き、不安が増し、悩み続けた結果光明を得たのです。その鳥の歌声のパワーによって、ついに・・・・悟ったのです!!※ 悩み続けた結果、悩みと一つになり、それによって自分と隔てているものが無くなり鳥の歌声のパワーによってついに・・・・悟ったのですそんそな事を言っても意味が解らないかもしれませんけど!?鳥が自分で、自分が鳥のように一体になった時に、鳥の生命力あふれる歌声のパワーによって悟りを開いたのです。確かに歌声のパワーによってと言うものですが、心の境界線が崩れる時にそのように生命力あふれる歌声に聞こえていたのです。今までに聞いた事のないような歌声、まるで鳥が鳥の歌声ではないような声だったと思います。そのような不思議な歌声として聞こえていたのです。それが悟り(見性)体験だったと思います。またこういう事を言えるかもしれません。我をわすれて、そのものそれになりきった時、何らかの感覚の縁にふれて、そのとき初めて、本来の自己を悟ると言うものかもしれません!?そのものになりきって、(ものになる)ところに本来の自己が現れるものだと思います道元に、聞くままに、心なき身にしあれば、己れなりけり軒の玉水という歌があります。無心で座禅をしていると雨だれの音を聞いて、自己を忘れて、無心に聞く時、軒の玉水がそのまま自己であったというのです。自己を忘れた時、方法に証せられる。■ 最後に一瞬の飛躍 光のかけ橋Date: 2019-04-09 (Tue)道元に、聞くままに、心なき身にしあれば、己れなりけり軒の玉水という歌があります。無心で座禅をしていると雨だれの音を聞いて、自己を忘れて、無心に聞く時、軒の玉水がそのまま自己であったというのです。自己を忘れた時、方法に証せられる。前にも日記で書いた事がありましたけどね。秋月先生はこのようにおっしゃつていますね。自己を忘れて、万法の方から逆に自己修証される時に(悟り)の世界が開けます。自己が世界を対象として見ている時は、自己と世界とが二つになる。逆に万法の方から進んで自己を修証するという時には、自己が無になって、自己は万法に一如して働くわけですから、二つが消えて一そのものが動き出してくるのです。要するに、一つのものを二つ見ているのが迷いで、二つのものを一つ見るのが悟りなのです。