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若い時に禅寺でお世話になり、その寺の草取りのお手伝いをしたことがありました。
その和尚さんがこう言った事がありました。 誰もが眼にとまる美しい大輪の花を愛するけど、 誰にも気にされず、誰の眼にとまらないひそかに咲いている この小さな花の美しさは誰にも解からない。 見向きもされないけど、立派に咲いている。 この小さくてもひっそり咲いている花を愛するようなものにならなくてはならないと和尚さんは言っていました。 その時に思った事は、この小さく咲いている花を誰も見ようとせず、 後ろで啼いている蝉の声も聞こうと思う心を持って聞いたという人は、この禅寺には他におらない。 この和尚さんと同じ境地に達するのはと、思いめぐらしていた頃をなつかしい思います。 達磨大師はインドから中国までやってきて、面壁9年ただ座禅したと伝われています。 その達磨の残された座禅が東洋に座禅が大きな力となって働いています。 内山興正は黙って10年座ること。さらに10年座ること。その上10年座ることとし、 安泰寺にのこす言葉としています。 座禅を始めた頃はごちゃごちゃぬかさず、ただ黙って10年を坐ると心に決めました。 その10年たった時に何かなったかというと何にもならなかった。 その何にもならなかったのは何にもならないと思われると思いますが、 その何にもならなかったと思う者はもっと何にもならないと思います。 その何にもならなかったものをさらに10年続ける事になりました。 お釈迦様のこんなお話が残っています。 お釈迦様は霊鷲山の集まりで、説法をしたと言われています。 その時に何も言わずに、蓮の花をすっとお示しになりました。 しかし、その意味は誰にもわかりません。 その時に、それを見て摩詞迦葉尊者お一人がにっこりほほ笑まれました。 このお釈迦様が一輪の蓮の花をお示しになり、見てにっこりされたと言う事は、 お釈迦様の悟りが摩詞迦葉尊者の心に伝わっていったのだと思います。 そこに居た大勢の修行者の方はみんな理解できてなかったというものです。 摩詞迦葉尊者お一人がお釈迦様の悟られた意味を理解できたというものです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2012.01.03 21:24:41
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