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若い時に禅寺に行って思った事かありました その当時に一緒に坐っていた方が身体を患っていたのです。 その時思ったのは頑固な方などは、老化現象が著しいと思った事がありました。 まだそんな歳ではないのにと思った事がありましたね。 どうも禅寺に参加している方は、どちらかと言うとインテリ―みたいな しっかり自分を持っているなぁ~ そりゃ~インテリ―タイプみたいで皆立派な方が多く その中にいる自分などは毛色の違う? だから自分みたいな者は、異質的な存在だったかしれません。 それと場違的な存在だったかもしれませんね でも最後までは座禅続ける事は結局は出来なかった 足に支障があらわれてきて、坐れなくなったのです。 だから道場に行かなくなったのに、自分の事が良く話題されていたようです 自分思うんだけどね。それと頑固な方しっかり掴んで離さない。 観念持っていてもそれを頑なに変えようとはしない そりゃ~誰もがそうだから何とも言えないけどね ほんともっと楽に生きて行けばよいのにと思っていました。 しっかり自分をもって放さない いちがいには言われないけど、原因不明の病気とか?例えば喘息とか? リュウマチ?膠原病? アトピーや癌やあらゆる難病になる可能性があると思った それと気質、頑固、利己主義、自己中、性格に現れているように感じがしました ほんと心身に現象として現れている方もいるように思います その為にはやはり柔軟性をもっていないと。自分が自分を締め付けて縛り付け 自分を攻撃しているのにと思った事がありました こういった生き方、自分は正しく生きて来たと持論があり、 決して頑なに手放そうとはしないようですね 偏った感情があるようです もしかしたらある思想を取り入れているのかもしれないね でも誰もね、まあるい心の事を思う方はあまりいない。 まして元の純粋なる自分を取り戻そうとは言わない。 本来の自分はどうであったのか? もし純粋なる自分に付着したものがあれば取り除く、そうしたらその境地はどうなんか? 一度考えても良いのかもしれないね。 ほんともっと受け入れられる事は受け入れる事も大切なのにと勝手に思いました 人間だから駄目な自分も良い自分も認めて、 トータル的に生きていばいいのにね ほんと禅寺の道場で、その方を見てもっと気楽に生きていけば良いのにと思った事がありました。 その為にはやはり柔軟性を持っていないとね 自分みたいに砕けすぎるのもどうかと思うけど、ほんと時々は思う事があるのです やはりバランスだと思がねぇ~ こういった偏った感情を無くすのには、気づく事が大切なんですね。 自分は正しく生きてきたとか? 自分は正しいとか? こうあるべきとか? その方の持論があって、もしかしたら他にも強要するような狭い考えしか持っていないかもしれませんね そんな窮屈な 思いも手放し もっと肩を抜いて楽に生きて行ったら良いのに それを変えるのは気づきがあって、初めて変えていけると思います それといくらヒーリングしていても、何も変わらなかったと言うティチャーがいるようですが、 その方のブログを前に見たことがありました。 それには癌を患っていて、その後どうなったかは定かではないけど、 それはいろいろな要因があるかもしれないけど、魂の目的がある場合は 魂の成長や課題を克服する事になるまでは、癒されないかもしれませんね。 もしかしたら死が癒される事になるかもしれません。 それにはひとりひとりの魂には課題があったり、目的があるようですからね それはとカルマの影響がある方は、カルマが解消するまでは難しい 自分はその事を身を持って体験してきました。 カルマが現れている時には、何をしてもどうしょうもなく、 自分を信じて進むしかないと思います そりゃ~自分で作ったものは、自分で乗り越える それを誰かに取り除いて貰ったり、また助けてと言うのは依存だと言う事みたいです だからほんとその方にとっては厳しいものになるかもしれません それとカルマの事を言うと、そんなのはないとスピ系の方でも言う方はいます。 カルマの事を言うと重苦しく感じがするかもしれないけど、 もしかしたら想念帯の中に抑圧されている感情エネルギーがあるのかも? そんな記憶デターがあればね、現実に持ち込み現れあらゆる現象が現れて来る また癖として現実に現れて来るとか? 聖人君子みたいな女性が、ある時期にガラッと変わって行く 油が芯にしみ込んでいくような感じを持って見ていたことがありました まぁ~別な意味で自分みたいに開けてはならぬ? パンドラの箱カルマの巣と言うものを開けている方も中にはいるのです まぁ~道場ではしっかりと生きて来たと持論を持っているような方に限って、 心身に影響が現れて来ている方が居たようです でも自分は何が正しいか 普通に正しく? 何が正しく何が悪なのか? 少し自分は疎く解らないところがあったのは事実です 体験とするならば、その方は何ら間違ってはいないのでしょうけどね。 あまりにも偏りすぎてしまうと、他の方の考えなど受け入れる事は出来ないようです。 それがかえって、自分自身を攻撃しているのにと思った事がありました。 正しい道と言うのはどうなんか? でも実際は正道とかありますからね。 でも体験とするならば寄り道、回り道になってしまうかもしれません。 それも学びとするならば、学びというよりは魂が体験したくて渇望しているのかもしれません まぁ~自分が納得して良しと思うまでとことん体験をして行くのでしょうかね? それが納得出来たら、また別なものを渇望していくのでしょうね 烏滸がましくてあまり言ってはならないかもしれないけどね、 自分みたいな者は結構底辺と言われている者や裏世界で歩いた来た者が、自分にある意味で心を開いてくれる事も結構ありました。 もし自分が正しく生きてきたら、底辺と思われている方や今苦しんでいる方に光や希望を伝える事はできないのかもしれません もしかしたら自分が正しく生きて来たら、何を言ったところで説得力はないのかもしれません。 そんな自分に心を開いてくれるのは、有難い気持ちもあるのです。 ここだけの秘密だけどね。心のなかではね~ この容姿でなくて、賢かったならスピ系ではなく別な道を歩んでいたと思う事がありますね 自分の周りを見て良いものを持っているなぁと思っている方もいますからね ほんと自分にないものを憧れがありますよ ほんとないないものねだりだね
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Last updated
2024.03.19 11:07:29
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