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再出発日記

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読書フィクション(12~)

2020年10月25日
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テーマ:本日の1冊(3223)

「類」朝井まかて 集英社

森鴎外を知れば知るほど巨大な人物に見えてくる。作家としても、思想家としても、政府要人としても大きな足跡を残した。そして森鴎外は一方で類稀(たぐいまれ)なる家庭人だった。於菟(オト)、茉莉(マリ)、杏奴(アンヌ)、類(ルイ)の兄弟姉妹は、その海外でも通用する名前をもらって、愛情もって育てられる。二章目で森鴎外は亡くなり、そのあとは戦後のずっと先までの彼ら家族の物語になる。

類が森鴎外の才能を受け継いだわけではない。むしろ(言及は一切ないけど)軽度の発達障害だったかもしれない。知能に障害があるわけではないが、成績が上がらない。凡ゆることに集中が続かず不器用だ。遂には中学校を中退する。ただ、遺産相続があり、一家は一生困らない生活ができると思っていた。

底辺にいる末弟の類を通して華族的な森一家を見れば、森一族の世界が立体的に見えるだろう。というのが、作者の「狙い」だったのではないか?

現在我々が簡単にその著作を手にすることができるのは、長女・森茉莉の作品だけである。しかし、次女の小堀杏奴の才能も素晴らしかった。4人兄妹や鴎外の妻や叔母の金井美恵子さえも本を出している。森類「鴎外の子供たち」(ちくま文庫)は、本書を機会に是非とも再販して欲しいものだ。

一転、戦後家族人となった後の貧乏生活。世間一般の極貧とは違うが、初めての会社勤めをして類は1か月後に丁寧に追い払われる。後に同僚から言われた「役に立つ、立たないじゃないんですよ。あなたのような人が生きること自体が、現代では無理なんです」との指摘がキツい。類がそのホントの意味を分かり得ていないのもキツい。

それでも、類たちには貴重な「体験」という資産があり、類は姉以上の記憶力を活かしてなんとかモノになる本を書く。尚且つ僅かばかりの本物の資産もあり、最後まで落ちぶれず(姉の茉莉は「贅沢貧乏」という形で精神の華族を表現した)彼ら森一族は昭和を生き延びてゆく。

森一族という狭い眼鏡から観た昭和史。森鴎外という巨人の影からどうしても自由になれなかった芸術家の子供たちという「運命」。でも決して不幸ではなかった。それは彼らにあった「森鴎外の名前を汚しててはならぬ」という使命感が、彼らの顔を上に向かせていたからではないか?偉大な「パッパ」を持った一族史という「小説」だったと思う(同様の一族で、私は手塚治虫の子供たちを思う)。

表紙は類の絵だ。観潮楼(団子坂の鴎外邸)の、鴎外が手入れした花畑に違いないと思う。

※細かいところまで神経が行き届いている。観潮楼に生えている郁子を見ては「郁子なるかな」と祖母が呟いているエピソード。「むべなるかな」の元ネタを踏まえてのことだけど、それ以上の説明はない。ウィキにさえ載っていないモノネタである。
森一族への直接取材も可能だったらしい。恐ろしいほどの取材を経て綴られた。約500頁、読み応えのある「小説」だった。






最終更新日  2020年10月25日 15時26分54秒
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「進撃の巨人」24-32巻 諌山創 講談社
平成の漫画の象徴(代表作ではない)を、ひとつだけ選べと言われれば、発行数・影響力ともにこれを選ばざるを得ないだろう。今まで17、23巻の時にレビューし、「あと5巻以内に終わるだろう」と言ってしまった。ごめんなさい。令和になっても刊行は続いている。一回でまとめる自信がなくなった。次次回ぐらいに終わる可能性があるが、ここらあたりで一度書いておきたい。

こういう話で、私の関心は、キャラがどうのこうのという風には向かない。いつも物語の構造に関心が行く。物語は未来譚なのか、過去譚なのか。始原の巨人は何故出現したのか。よって、作者は「何故」これを描き始めたのか?だから、そういうことに関心がない方は以下は読まなくて良いと思う。

舞台は、小さなパラディ島「閉じられた世界」から大陸含む「開かれた世界」に移った。1900年代ぐらいの文明を保っている。日本みたいな国もある。日本人じゃなくてアズマビトと呼び名が違う。飛行機は開発されたばかりで、連合艦隊が最新鋭の軍隊である。完全パラレルワールドであり、どうやら現代世界の過去譚でも未来譚でもないようだ(私はその可能性も考えていた)。

どう考えてもエレンの目的は常軌を逸している。エレンの観た未来とは何だったのか?

32巻の冒頭で繰り広げられる、復讐の連鎖についての「対話」は、非常に象徴的で重要な場面だった。けれども繰り返し予定調和を否定する。それがそのまま現代の平和情勢を反映しているように思える。

生まれた時から「世界は残酷」だった。油断すると食われてしまう。マーレ人はエルディア人について「世界の火薬庫であり、かつての歴史的災厄をもたらした呪われた人類の巣窟であり、ほとんど人間ではない」と教育している。エリートの少女は、何巻もかけて、実はマーレ人もエルディア人も同じ人間であることに気がつく。それは平成時代から日本人が持っている世界認識の課題かもしれない。一方でエルディア人たちは、仲間内の絆をホントに大切にする。ところが、その仲間内でさえ、大きな裏切りが存在した。いったん仲違いした、それらの仲間たちが32巻でまた共闘を組むのは、思うに、作者の狙いだろう。

「鬼滅の刃」よりも遥かに複雑なストーリー。二重三重のカラクリ箱を作って結論という中身を見せようとしている。カラクリの鍵を押したり引いたり、行ったり来たりしないと次のステージに行けない。カラクリは読ませるための技術である。わたしは箱の中身が気になる。結論を何処に持ってゆくのか。それを見ないことには、わたしも軽々(けいけい)に評価を下せない。







最終更新日  2020年10月25日 15時24分44秒
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2020年10月23日

「鬼滅の刃」1-11巻 吾峠呼世晴 集英社コミックス

話題の作品をとりあえず11巻まで一気読み。次は完結した後に読み終えるつもり。映画になっている「無限列車」篇を通り過ぎて、「遊郭」篇まで行った。

ジャンプ伝統の王道バトル漫画である。相手はどんどんレベルアップしていき、それに対抗して主人公たちもどんどんレベルアップしていく。

「頑張れ炭治郎頑張れ!俺は今までよくやってきた!俺はできる奴だ!そして今日も!これからも!折れていても!俺が挫けることは絶対にない!」
泣きたくなるような真面目でそして優しい男・炭治郎。(3巻)

「善逸、極めろ。泣いていい、逃げていい、ただ諦めるな。信じるんだ、地獄のような鍛錬に耐えた日々を。お前は必ず報われる。極限まで叩き上げ、誰よりも強靭な刃になれ!一つのことを極めろ」
極めた先の希望の男・善逸。(4巻)

才能を罵倒された者。
DVで苦しんできた者。
両親に愛されていないと勘違いした者。
「醜い化け物なんかじゃない。鬼は虚しい生き物だ。悲しい生き物だ」(那田蜘蛛山篇)(5巻)

そして、「無惨」のあまりものパワハラ!
遂には、
アニメ「鬼滅の刃」社会現象化 ボス鬼が「菅首相そっくり」とウワサ…セリフにも類似点
https://news.yahoo.co.jp/articles/d5606f1e8ef56dd88445118a8ffb79cd90424b47
という「記事」まで登場した。

「人にされて嫌だったこと、苦しかった事を、人にやって返して取り立てる。自分が不幸だった分は、幸せな奴から取り立ててねぇと取り返せねえ」(10巻・鬼の中間幹部・上弦の陸のセリフ)
←これはそのまま相模原事件・死刑囚植松のセリフのような気がする。

わたしは、「鬼滅の刃」は時代の産物だと思う。生まれた時から「就職氷河期」「格差の拡大」「いじめの日常化」「ブラック企業の増大」が当たり前の世の中になっている平成に生きた作者だから作られた作品だと思う。今の若者には信じられないかもしれないが、これらのことは昭和の中頃から終わりには(社会問題化できるほど洗練されて)起きていなかったのだよ、ホントです。でも一方で、「清らかなもの」も信じていられる。ずっと平和は続いてきたから、だ。平成生まれは絶望はしていないのである。その象徴が「炭治郎」であり、鬼の血を受けても人間でいられる「禰豆子」なのだろう。

かなり難しい漢字を使っている。それでも拒否されずに受け入れられるのは、やはりマンガの力なのだろう。

上弦の鬼たちになると、もはや鬼の幹部なので、中間管理職の悲哀がにじみ出ている。
ストーリーのメリハリは、8巻ごろから濃度が薄くなっているかもしれない。ここまで来れば、最終巻までもう止まらない。

※ミヤネ屋の宮根誠治が「泣いた、泣いた」とはしゃいでいるのを見ると醜悪さを感じる。ブームに乗っかろう、或いはブームを作ってやろうという「大人の思惑」を感じるし、こういう鬼が出てきてもおかしくはないな、と「臭う」。






最終更新日  2020年10月23日 10時50分13秒
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2020年10月14日
テーマ:本日の1冊(3223)

「そして、バトンは渡された」瀬尾まいこ 文春文庫

そして、レビューのバトンは渡された。
一周回って、今の時期に読んで、
「暖かな気持ちになった」「最後のシーンに涙した」「みんな愛に溢れている」
と書いても二番煎じな気がする。

わたしはひねくれているので
それに、本屋大賞受賞作はたいてい映画化されるので
プロデューサー目線で書きたいと思う。
本来そろそろ映画化発表ニュースが流れてもいいのに
何故未だグズグズしているのか
それは、これが映画化がとても難しい作品だからである

17歳の時点で母親2人、父親3人、名字は4回変わったけど
「困った。全然不幸ではないのだ。少しでも厄介なことや困難を抱えていればいいのだけど、適当なものは見当たらない。いつものことながら、この状況に申し訳なくなってしまう」
と呟いてしまう優子ちゃんが主人公である。
小説ならば、彼女の心理はその度ごとに描かれるので
問題はない
映画ならば、本来ならば理不尽な行動をしてしまう
親たちを許してしまう主人公に
鑑賞者は、果たして共感できるだろうか
いくら親たちが真から優子ちゃんを愛していて
名優がそれらしき演技をしても
それを信じてしまうためには、
17歳と10歳の少女に
かなり説得力ある演技をしてもらわなくてはならない
そんな俳優が果たしているのか
人選に困っていると思う。

確かにみんな良い人たちばかりで
みんな愛に溢れている
から、こんな奇跡が起きたのだと思う。
でも、リアルに映像化すれば
(リアル感のない映像化は考えられない)
小説の中で言葉にされていないことを
表現しなければいけない
優子視点で語られた物語は、
梨花さん視点、水戸さん視点、泉ヶ原さん視点、森宮さん視点が必ず入る。
すると全く違った景色になる
それでも愛の奇跡を起こせるのか
優子は自覚していなかったけど、
普通の子供よりも遥かに強くなり
そしてホントは傷ついていた

それを描かないとホントの感動は取れないと思う

一つの可能性は、17歳役は(既に20歳近いけど)「義母と娘のブルース」で好演した上白石萌歌。でももう一皮剥ける必要がある。
少女役は思いつかない。
親たち役は上手い役者が多いからなんとでもなる
難しいのは脚本家と監督だ。

頭が痛い。やっぱり映画化は無理かな。
というわけで、誰かにバトンを(^_^;)。







最終更新日  2020年10月14日 12時11分39秒
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2020年10月08日
テーマ:本日の1冊(3223)

「遺品博物館」太田忠司 東京創元社

わたしは時々やってしまうのですが、申し訳ありません、長い前フリをします。純粋な本の感想を読みたい方は、後半部分に飛んでください。

考古学を趣味にしていると、博物館における遺物の展示説明には玉石混交があります。なるほど、「考古学は事実で歴史を語る学問だから、自分の思いなど書くべきでない」と言う学者もいます。でも下の説明書(せつめいがき)を見てください。これは、大洲城内にある中世末期の湯築城から出土した土師器皿(かわらけ)の説明書です。
「猫の足あとのある皿」
「この土師質土器の皿は、丘陵西側からまとまって出土した中の一点です。皿の内底部に猫の足あとがくっきり残っている、大変珍しいものです。おそらく、製作の過程で偶然足あとがついたものだと推定されますが、城内から出土したということは、製品として持ち込まれて使用されたと考えられます。当時もさぞかし話題になったことでしょう。」  
普通の説明書では、「大変珍しいものです」で止めています。そこまでならば、「そうか、この頃も猫は身近だったんだ。肉球可愛い!」ぐらいの感想しか生みません。ところが、後の説明を読むことで、想像力豊かな人は、一冊の本さえ書けるでしょう。「城内から出土」という「事実」から「城内で製品として使用されていた」という「事実」が浮かび上がります。一見不良品の皿を、わざわざ貴人が使用する城内に持っていこうと決意した製作者の気持ちは何だったのか?それを受け入れた者(おそらく姫←わたしの想像)の気持ちは何だったのか?それに気がついた周りの人たちの反応はどうだったのか?
‥‥ここからもわかるように、本来「遺物」には、すべからく「物語」があるのです。それを掬い取って語るべきは、考古学者の務めであるとわたしは主張したい。

「遺品」には「物語」がある。

何も有名なお城から出土しなくてもいい。普通の人の遺品は、多少なりとも人生の物語を内包しているはずです。ならば、その遺品を中心にしてミステリが書けるはず。なおかつ、遺品を収集し、研究し、いつの日か展示する「遺品博物館」があってもおかしくはない。著者の想いに大いに賛同します。

ここに出てくる人たちはみんな無名の人たちです(創作話だから当然である)。けれども、万が一パラレルワールドで彼らが実在していたとして、遠い将来「遺品博物館」で「研究者」が遺品の価値を品定めしたとしたら、彼らの「死因」の多くは伝えられているものとは違うものになってしまい、その世界の「文化史」の幾つかは「書き替え」が迫られるでしょう。まぁ何人かは、既に誰かか暴露本を書いていて、この「遺品」の存在が伝説と化している場合もあるでしょうけれど。

ミステリとしては、途中で小出しに事実の暴露が行われるので、まぁ普通に楽しめました。設定だけが面白い作品です。こんな八篇の短編集にするのではなくて、緊密な構造を持った長編こそが相応しいとわたしは思います。







最終更新日  2020年10月08日 06時59分07秒
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2020年10月02日
テーマ:本日の1冊(3223)

「三体」劉慈欣  大森望、光吉さくら、ワン・チャイ訳 早川書房
中国のSF小説である。現代の中国。ある時、エリート科学者3人が2ヶ月の間に、立て続けに自殺した。その背後には、宇宙で起きているとてつも無い秘密が隠されていた。

現代科学では立証できないことは非常に多い。残念ながら非立証性事実の存在は小説内のことではなく、現代世界の厳然たる事実である。しかし「SF小説」は、易々とその背後関係を説得力もって(時には力づくに)説明する。宇宙の秘密は、一冊の本の中に閉じ込められる。これこそがSFである。読者はそこから、さまざまな想像を掻き立てる。それこそがSF体験である。

「三体」について私の感想を五割増専門的にしたものを、訳者の大森望さんが「訳者あとがき」の前半2pで書いてしまっていた。同じ感想なので省略する。そういうわけで、大変面白かったとだけ書いておく。

その他、つれづれ思うことを付け足す。

・現代の中国エンタメ文学(つまり2100万部も売れた小説)で、ここまで文革批判が自由に出来るのか、と少し意外だった。それは即ち毛沢東をはじめとした、当時の政権幹部全てを批判することと同じなのだが、彼らはみんな鬼籍に入っているからいいのか?中国四千年の歴史の中では、それぐらいどうってことはないのかもしれない。

・実は1番心に残ったのは、「SF体験」ではない。知識人と庶民から見た文革の顛末を、全く新しい視点から読ませせてもらったところである。特に父親を殺した元紅衛兵元少女たちのとの邂逅場面は面白かった。エンタメ小説の醍醐味だ。わたしの観た中国は文革終了15年後の北京と20年後の上海だった。あの時も、中国四千年の歴史と変化の速さにおののいたものではあるが、それから更に15年後の中国がどんな化物になっているのか、また観たくなった。

・既に発動しているが、長編ドラマ化は大変愉しみだ。それ以外にも、現代中国ならば映画化も必然だろう、と思う。このような無駄な文化的娯楽が、おそらく三体人には脅威だと思われるからである。

それでは、またのログインをお待ちしています。






最終更新日  2020年10月02日 10時38分11秒
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2020年09月30日
テーマ:本日の1冊(3223)

「眩(くらら)」朝井まかて 新潮文庫


藤沢周平の次の時代小説の担い手は朝井まかてかもしれない。

私はまかてのファンでは無い。読了もこれが3冊目だ。1冊目は、直木賞受賞直前で、「恋歌」の読者モニターで感想を送ってサイン本さえ頂いてはいるが、ファンにはならなかった。もちろん傑作だったが、女性の情念には私はのめり込めない。

それでも、これは「恋歌」よりも更に一歩踏み込んだ傑作だと思う。一頁一頁の書き込みが、そんじゃそこらの他の作家の比では無い。「自分は親父どの(北斎)の才能を引き継いでいない」と自覚しながら、のめり込まざるを得ない美の世界への執着を、これでもかと描いている。ドラマでは美人の宮崎あおいが力演していたのだが、私は北斎美術館のリアルなジオラマのお栄を見ている。痩せていて顎がしゃくれてお世辞にも美人とは言えなかった。コンプレックスを情熱に換えて、彼女は焔の見せる緋色と闇の中の光と影に美を見出す。それを表現する。その過程の描写にやはり、私は藤沢周平を想起した。

冨獄三十六景。小説では、お栄は失恋し、北斎は孫の時太郎の不良化に悩み、板元の西村屋は大火事で焼け出され、それらが末の逆転劇として描かれている。大判錦絵。
「景色に金子を出す物好きなんぞ、いやしねぇよ。三代目は自前で打ってでるらしい」
「正気の沙汰じゃねぇな。葛飾親父も三つ巴印の泥舟に乗せられなすって、気の毒なこった。情に流されてとうとう一緒に沈みなさるか。なんまいだぶ」
事前の評判は最悪だ。けれど北斎が提示した10枚に魅力されて彫り師も、摺し師も、当時の名人が集った。西村屋はそれを見て三十六景を提案する。
最初の刷りは、神奈川沖浪裏。今や、北斎のアイコンである。錦絵は、版木は8枚使われる。北斎も、8枚に色指定をしながら描かなくてはならない。それを寸分違わず彫り、寸分違わず摺る。それを三十六景仕上げる。全て富士山の絵で、趣向を全て変えて。今でこそ、我々は文庫本(岩波文庫)で観ることはできるが、当時としては大博打で、しかし、北斎の天才がなければ無理の趣向だったことは間違いない。初板摺が二百枚だった「冨獄三十六景(実際は四十六景)」は、5年後には軽く万を超えたらしい(とは言っても重版出来で潤ったのは西村屋だけらしいが、北斎の名前は売れた)。そして、細かいところはお栄が描いた。

文庫表紙にもなっているお栄の代表作「吉原格子先之図」。安政の大地震で浅草の山之宿町に移った、新吉原の図とは知らなかった。西洋画の陰影も取り入れながら、浮世絵しか描けない真実を描く。「命が見せる束の間の賑わいをこそ、光と影に託すのだ」くらくらするような傑作である。






最終更新日  2020年09月30日 14時20分49秒
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2020年09月28日

「ひねもすのたり日記2」ちばてつや 小学館

毎回4Pのたり連載だから、ゆっくりと読んでゆくと決心してからいつのまにか2年半近く経ってしまった。図書館にもネットカフェにも置いていないので、これは買うことにしている。

おそらく、ちばてつやの代表作のひとつになると思う。老齢の漫画家が、何処まで描けるのか、その一つの典型を、ちばてつやは、史上初めて我々に見せてくれつつある(杉浦茂は例外)。老齢だからこそ描ける世界があることを、本書で我々は初めて知るのである。葛飾北斎は88歳まで現役だった。ちばてつやは、あと7年は頑張ってもらいたい。

とは言いながら、1話目は高井研一郎の生前葬の葬儀委員長をやった時の思い出で、2回目の委員長をやろうとしたら本葬になったというエピソードだった。そうだった。山口六平太の新しい話はもう読めないんだ、と突然寂しくなった。ちばてつやも、いつ亡くなってもおかしくはない。

実弟のちばあきおの話も、全て器用になんでもこなす弟が、漫画を描いてみると四苦八苦して半年もかけて一作描いたというエピソードだった。兄からすると、漫画家になったことが弟の命を縮めたのではないか?という想いは(書いて無いけど)あったのかもしれない。「あの時引き止めなかったことに、少々悔いが残ります」と呟いている。でも、ちばあきおの描いた「キャプテン」「プレイボール」「チャンプ」などは、全て一つのテーマを「不器用に」追ったもので、作者の方はスポーツも勉強もそんなにも優秀だったとは、私は思いもしなかった。兄は書いている。「でも(略)多くの人々に長く愛される作品をたくさん描きあげたよ。‥‥ごくろうさま。」

その他、心にじんわりと響くエピソードがいっぱい。

前作は満洲からの引き揚げ体験がメインで、あれ以上のとっておきの話はないかも、と心配していたのだが、そうではなかった。今回の主な話は、漫画に初めて出会って、描き出して、初めて貸本屋から原稿料を貰ったところまで。ひとつひとつを丁寧に描くことで、此処まで読ませる漫画になるのか、と感心する。もしかしたら、ショートコミック形態で、テーマはなんでもあり、時々思いついたようにストーリーが流れるという形式が、ちばてつやには1番合っている形式なのかもしれない。全面カラーなので、アシも使っているはずだけど、色使いも目配りが届いている。アマゾン川で観た満天の星空の描写は、肉筆を展覧会に出したならば、必ず人々の足を止めることだろう。そして何よりも殆どの登場人物に生命が宿っている。特に父親、母親、兄弟、全部の登場シーンをその歳ごとに描き分けて、しかも何を考えているのか想像できるように描いているのは凄いと思う。

それから、小学3年で木内くんに勧められて初めて描いた漫画や、小学6年の時の漫画を見せてくれている(←物持ちが良い)。私は私の小学5年の時の漫画を持っているが、それとのレベルの違いをまざまざと見せつけられて、改めて漫画家にならなくて良かったと思った。






最終更新日  2020年09月28日 19時22分24秒
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2020年09月25日
テーマ:本日の1冊(3223)

「光文社古典新訳文庫「古典の森」の読書ナビ  編集長の厳選 62冊」駒井稔著 光文社Kindle

人生は短く、読むべき本はあまりにも多い。

蓋し、至言と思うが、わたしが言っているのではなく、加藤周一から初めて聞いた。おそらく、最初に言った人はもっと遡る筈だ(おそらく中国古典辺り)。加藤周一は、その何代目かの(広い意味での)翻訳者だと思う。

何度も訳されると言えば古典もそうだ。「古典は「昔の物」ではなく、いつの世にも読まれるべき価値の高い本のことであると声を大にして言いたいのです。繰り返し新訳ができるということは永遠の命が宿っているからなのです。」
と古典新訳文庫の編集長たる駒井稔さんは言い、文庫の試みが成功した意義を解説しています。どの時代でも読まれるというだけでなく、新訳がいつの時代でも出てくるという意味で、目から鱗の指摘でした。蓋し真理と思うが、おそらく駒井さんが初めて言った言葉ではない。

この本はKindleで0円なので、お勧めします。200冊以上新訳を出して、その中から「入門編」「中級編」「上級編」と分けて紹介していますが、紹介文の中で時々「おゝ編集者の気持ちはこうなのか!」と目から鱗の指摘があります(例えば「星の王子さま」ではなく「小さい王子」(野崎歓訳)として出版したことについて書いた経緯など)。ラインナップが楽しい本だと思います。



光文社古典新訳文庫・駒井稔編集長が熱く推奨する「今こそ読まれるべき古典」 79冊 Kindle


前に紹介した類似本「光文社古典新訳文庫「古典の森」の読書ナビ  編集長の厳選 62冊」をKindleで読めた人には、同じく0円で読めるこの本も推薦します。軽く読めるからです。最初は短編小説を紹介している。その意図は以下の通り。
「海外文学の長編を敬遠する人が多いとよく言われます。しかし典型的な長編作家と思われているドストエフスキーもバルザックも、実は読みやすい短編を数多く書いています。『グランド・ブルテーシュ奇譚』は、そういう意味でバルザックの入門書としては最高です。」
ラインナップは、知っているのも無いのもあり、楽しいです。

前回の紹介の中で、加藤周一の言葉を紹介した意図を書くのを忘れていました。
わたしの古典への態度は複雑なモノがあります。
「(人生は短く、読むべき本はあまりにも多いのだから)読むべき本は、もう古典だけに絞って読むのが最も効率的な読み方である」と確か40年前ほどに読んだ加藤周一「読書術」に書いていて、その時は「その通り!」と思ったのであるが、根が煩悩多く欲深きわたしは、半世紀近くも濫読を止めることができていません。目の前に面白そうな本があればつい飛びついてしまいます。それなりに楽しいのですが、おそらく人生を豊かにするという点に於いては効率的では無いでしょう。このままいくら濫読しても、おそらく、あと20年で多く見積もっても3000冊は読めないでしょう。生涯読める本はおそらく1万冊前後に過ぎない。小さな図書館より少ない。おそらく、数では読書の満足は得られない。でもなかなか精読に切り替えられない。

しかし、2つ気をつけていることがある。
(1)わたしは日本に住んでいるのであるから、先ずは日本について一定語れるまでは外国文学においそれと手を出さない。
(2)加藤周一の教えに従って、いわゆるベストセラーには直ぐには手を出さない。文庫本になって、まだ読みたいと思って暫くして読むことにしている(例外は多くある。出会いは一期一会だからだ)。
そういうわけで、この本で紹介しているのはほとんどは外国本なので(新訳なのだから当然と言えば当然)、眺めるのはいいのだけど、直ぐには読もうとは思えない(例外は多くある)。ただし、古典新訳の以下の3冊についてはかなり食指が動いた。

知る人ぞ知る名著 1  〜アジア文学  
歎異抄 唯円/親鸞(述)/川村  湊(訳)
←なんと関西弁(庶民への語りかけ)で訳しているらしい。

梁塵秘抄 後白河法皇(編纂)/川村  湊(訳)
←正に歌謡曲のルーツとして訳している。

故郷/阿Q正伝 魯 迅/藤井省三(訳)
←毛沢東が「文芸講話」でまるで革命の教本として扱っていて、その視点で読んだことはなかったので再読したい。






最終更新日  2020年09月25日 14時41分23秒
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2020年09月21日
テーマ:本日の1冊(3223)

「猫の事務所」宮沢賢治 青空文庫
月一度の賢治再読。ずーとしばらく、賢治作品の中では見向きもされなかった作品ですが、ますむらひろしがマンガ化したりして、批評する人も多くなってきた作品です。何故注目されたのか。実に上手く「いじめ問題」を扱っているからでしょう。

青空文庫で、10分少々で読めますので、是非読んでください。猫の事務所とは、軽便鉄道の停車場の近くにある猫の歴史と地理を調べる役所です。4人が定員で欠員が出たので、最難関の1人に就いたのが「かま猫」でした。かま猫は、他の3人からジメジメとしたいじめに遭います。何故かというと、皮膚が弱くて寒さに弱いために、いつも竃(かまど)の中で寝ていて、煤で黒く汚れているからです。「なんでこんなヤツが、我が名誉ある事務所にいるのか」(とはあからさまには書いてはいませんが)三毛猫などの他の所員は、それでも仕事は優秀なかま猫を面と向かって悪く言えないのでいろいろ難癖をつけます。流石に事務長だけは、同じ黒猫のよしみで庇っていたのですが、遂に風邪をひいて1日だけ休んだ時に嘘を吹き込まれて次の日にかま猫が出てきた時にはすっかりいじめに加担してしまいました。遂にかま猫は涙腺が崩壊してしまいます。

さて、この後、このいじめ問題は、ちょっと斜め上からの出来事が起きて、意外な「解決?」をみます。

語り手の賢治は、この解決法について「半分同感です」と言って、物語を終わらせるのです。さて、この最後の解決法と賢治のコメントについて、様々な研究と意見が交わされているようです。

まるで現代のブラック企業のようで、「すわ、その先駆けか!」という評価は当たらなくて、事務長は当初味方だったわけだから、どちらかというと学校カースト制の中での先生の豹変問題と被っているとみる方が正確でしょう。

今回気がついた点は3つ。
(1)数少ない、生前発表作品のひとつでした。昭和2年の文芸雑誌「月曜」発表。改めて、賢治作品の普遍性について感心しきりです。
(2)有名なラストの作者のコメントの前に、実は作者はもう一つコメントしていました。2つのいじめエピソードがあるのですが、最初のそれで、まだ事務長がまともだった時に作者は「みなさんぼくはかま猫に同情します。」と言っているのです。このコメントと「半分同感」とはどう違うのか?多分、ラストの解決法に対する批判だと思います。わたしはこの立場です。他の見方もあります。かま猫は、あの解決を見る前にきちんと対処すべきだった。そのことに対するかま猫への批判だというのです。それは私は違うと思います。
(3)最後の解決法は、まるで天から降ってきた超常現象のように見えるのですが、賢治は何処からこれを発想したのでしょうか?仏典の中にあったのでしょうか?あまり無いようにも思います。もしかして、現実問題で同じ様なことがあったのでしょうか?賢治はこの年の春に、4年間勤めていた学校の教師を辞めたばかりです。あったとすれば、アレはなんだったんだろう?読み終えたあとにいろいろ話し合いたい作品です。






最終更新日  2020年09月21日 11時15分54秒
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