山口への旅2-2 ぶるうべるのカレー
東に向かう。小京都なので、当然低い山が連なる。そこに、鴨川のように小川が流れている。一の坂川である。清流である。しかも、土を残して、蛍が住める様に気をつけている。このまま、街中を横断するこの川は、毎年蛍が飛ぶ。大学時代はその有り難さは分からなかったが、今はとても貴重な川であることが分かる。この様な小さな森も整備している。官軍の錦の御旗を作った工房跡もその辺りにあった。県庁所在地と言いながら、これといった産業もなく、まだ中心部も昔工法の家々が残っている。これは庶民の家。これは弁護士さんの家のようだ。明倫館跡に、赤レンガの観光拠点が作られていた。橋から玄関に入る家。唯一の商店街、道場門前にたどり着く。ひとつだけだったが、京都にあるクランクの様にZ字路なっている小径を見つけた。京都では辻子と呼んでいたが、元の意味は厨子だと言う説もある。単に人の流れをまっすぐ通れない様にして関心を持たせただけでなく、この通りに神様を祀っているのが特徴だ。ここにも西向き地蔵が祀られていた。この道場門前通り。かなり前からの歴史があるらしい。これも初めて知った。その西端の安部橋のたもと枕流亭跡があり、薩長同盟を相談したところらしい。この辺りを歩いたのは、ひとつのミッションがあったからだ。新聞会のゆかりの地を訪ねるのが今回の大きなテーマなのだが、この町の一角の何処かに、山大新聞を印刷していた印刷所、俗称「けんしん」(山口県新聞社の略だろうか)があったはずなのだ。当時としても、珍しい活版印刷で、ひとつひとつ文字を拾って作っていた。流石に今は無いはずだ。跡地だけでも特定したかった。住所はわからない。行けば思い出すのでは、と期待したが、ほとんど思い出せなかった。よく門前でトンカツを食べたのだが、当然その店もなくっていた。とうとう諦めた。もう2時前になっていたので、一の坂川沿いの一柳という食事処で定食を食べた。思いのほか、あら炊きや酢物が豪華で、これで千円弱は安かった。そのあと、県立博物館に車を取りに行っていると、市役所隣にもしかしてあるかな、と行くと本当にあった、昔初めて「辛いカレー」を食べて感激して数回通った「ぶるうべる」がまだあった。ご主人に聞くと、40年間やっているらしい。私が食べたのは、開店して間もなくだったのだ。ここは辛みで辛くしているのではなく、香辛料を煮詰めて行ったら、美味しく辛くなったという辛さなのだ。ルーを別に盛っているのも、薬味にらっきょを使っているのも、今では当たり前だけど、あの時は衝撃的だった。そうそう、こんな感じだった。ご飯の上にうずら卵が載っている。とってもおしゃれで、1食600円近くしたので、特別な時にしか食べなかった。今でも800円だ。信じられない。美味しい。あまり辛く無いが、辛い。定食を食べたあとだったので、食べきれるか不安なほどに腹一杯になった。県立美術館横にひっそりと説明立て看も立てずに「青春譜」の石碑かあった。明治32年建立と読める。この辺りにあった山大の寮歌だろう。これはもっと注目されていい石碑だ。コーヒーを飲んでホテルに帰る。夜は軽く、昨日の同窓会の二次会の場所「ROCCA」で、ワインと秋刀魚のアヒージョで終わらした。13620歩