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わたしのこだわりブログ(仮)

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2018年03月29日
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前回の「ナチスと退廃芸術とビュールレ・コレクション(Bührle collection)」で紹介したようにノイシュヴァンシュタイン城は、ドイツ、オーバーバイエルンの美術品や図書などの集積所としてナチス支配下で使われていた時代があった。
確かに城塞型で近辺が一望できるこの城の存在はナチスにとっても好都合な場所だったのだろう。

リンク ​ナチスと退廃芸術とビュールレ・コレクション(Bührle collection)

ルードビッヒ2世の理想の城はニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg)のような平城(ひらじろ
)の居城ではなくどちらかと言えば中世の防衛型城塞が意識された山岳の城なので・・。

そこに父の影響もあったのかもしれない。
ルードビッヒ2世が青年時代に過ごした彼の父(マクシミリアン2世)が建てたホーエンシュヴァンガウ(Hohenschwangau)城も城塞型であった
※ どちらも古い城跡の上に再建されている。

しかし、城の内部は城塞とは遠く、どちらも当事流行のロマン主義が色濃く出た装飾がされている。
マクシミリアン2世のホーエンシュヴァンガウ城は中世の騎士や英雄伝説の絵画や壁画で飾られている。
共に中世を意識する所は同じであるが、ルードビッヒ2世のノイシュヴァンシュタイン城は同じ中世でも、ほぼワーグナーのオペラの内容に特化している。つまり創作性が高いのだ。

当然その装飾の仕様も今までの一般的な城のインテリアとは全く違う。どこにも無いタイプなのだ。
各部屋にテーマもあるが、それら装飾は例えるなら舞台装置の様相である。

実際、ノイシュヴァンシュタイン城内のデザインをしたのは城郭の専門家ではなく、舞台装置画家(クリスティアーン・ヤンク)だったというのだから納得だ。

※ ホーエンシュヴァンガウ城とワーグナーについては、2018年2月「ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 1 リンダーホフ城(Schloss Linderhof)」で少し紹介。

リンク ​ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 1 リンダーホフ城(Schloss Linderhof)


ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 3  ノイシュヴァンシュタイン城 2 タンホイザー

城の建築で受けた地元の恩恵
未完の城
歌人の広間とタンホイザーとパルジファル
ルードビッヒ2世の寝室、トリスタンとイゾルデ
ルードビッヒ2世の執務室 タンホイザー

ルードビッヒ2世の個人礼拝堂 聖王ルイ9世
城の建築費

城部門でも、観光全般でも上位に入るのがノイシュヴァンシュタイン城である。
毎年約140万人が訪れると言う。(夏期は、1日平均6000人以上の訪問者があるらしい。)
それ故、見学も一応予約制になっている。
だいたい40~50人くらいのグループでまとめられて移動。城内をかってに見学する事はできない。


初夏のノイシュバンシュタイン城
pict-初夏ノイシュバンシュタイン城 1.jpg

pict-初夏ノイシュバンシュタイン城 2.jpg
城には常時30人が勤務して管理。
王が城に滞在している時はその倍の職員が居て王に対応したらしい。

pict-初夏のノイシュバンシュタイン城 3.jpg
写真中心部分のテラスがルードビッヒ2世の寝室のテラス


1869年9月5日城の礎石が置かれる。
※ 岩山を8m程 爆破して低くし、給水と道路を確保した上で礎石は置かれた。
※ 設計は王室建築局の監督、エドゥアルド・リーデル(Eduard Riedel)(1812年~1885年)。

1869年~1873年に城門館が建築。
1873年~本丸の王館に着手
1883年には1,2,4,5階が仕上る。
1884年春には4階の王の住居部は完成

1884年5月27日~6月8日 ルートヴィヒ2世(Ludwig II))(1845年~1886年)城に初滞在。
1886年6月13日に亡くなるまでのおよそ2年間に城に滞在したのは172日であった。

※ ルードビッヒ2世(Ludwig II)(1845年8月25日~1886年6月13日)

城の正面、見えるのは城門館
pict-ノイシュバンシュタイン城 2.jpg

城の建築で受けた地元の恩恵
ノイシュバンシュタイン城の建設には19世紀と言う時代の割にしっかりした建設計画や労働組合が存在していたと言うのだから驚く。

前回、膨大な資材が投入された事に触れたが、例えば資材を運び上げる滑車は蒸気機関のクレーンを使用。資材はさらにトロッコで各所に運ばれていた。
そんな建築機器の安全性と機能の検査を行う検査協会が当事すでにあり安全の確保が計られていたと言うのだ。

前に紹介した琵琶湖疏水工事の環境を考えると日本とは比べものにならない文化レベルの高さである。
※ 琵琶湖疎水は1885年(明治18年)~1890年(明治23年)(第1期)ほぼ同時期に建設されている。
 2017年6月「琵琶湖疏水 2 (蹴上インクライン)」で書いています。

リンク ​琵琶湖疏水 2 (蹴上インクライン)

また、この時代としては革新的だったのが1870年4月「ノイシュバンシュタイン城建設に従事する職人協会」と言う社会制度ができていた事だ。

1ヶ月0.70マルクの会費に国王が多額の補助金を援助し、建設従事者が病気や傷害で休んでも最長15週間の資金支払いを保証すると言うもの。

工事には何百人と言う職人を必要とし、多数の商人との取引が行われている。
1880年には209人の石工、左官、大工、臨時工が直接建築に従事し、運送人、農民、商人、納入業者、さらに飲食業も建築に間接的に関わって来る。この地方全体の人が城建設に関わったと言って過言ではない。


つまりこの地方全体が王が亡くなって工事が中断される1886年6月まで城から受けた恩恵は非常に大きかったと言う事だ。

城門
pict-ノイシュバンシュタイン城 3.jpg

pict-ノイシュバンシュタイン城 4.jpg
門に入ってすぐに見えるのは、後方の王の居室がある本丸。
本当ならこの手前に礼拝室と巨大な塔ができるはずであった。
pict-ノイシュバンシュタイン城 5.jpg

pict-ノイシュバンシュタイン城 6.jpg
入り口正面の突出したテラス部分は、塔ができる予定だった基礎の部分。
pict-ノイシュバンシュタイン城 8.jpg

本来は下のような90mの天守閣と下には宮殿礼拝堂が建築されるはずであった。
pict-ノイシュバンシュタイン城 13.jpg
建築はルードビッヒ2世の死と共に中断され未完となってしまったが、もしこれが完成されていたなら、もう少し城はカッコ良かったかもしれない。ちょっと中途半端なのはその為なのだ。

城門館の内側
pict-ノイシュバンシュタイン城 9.jpg

城の見取り図

pict-ノイシュバンシュタイン城 1.jpg
上の二つがメインの王館となる部分
ルードビッヒ2世の居室は中、ブルー系の所。

メインの王館となる建物が正面
pict-ノイシュバンシュタイン城 10.jpg

pict-ノイシュバンシュタイン城 11.jpg
テラスより上が「歌人の広間」と呼ばれるホール部分。
その下の階がルードビッヒ2世の居室のある階。
たぶん見える窓は左がクローゼット。

壁画はニーベリングの指輪四部作の3つ目、
ジークフリート(Siegfried)からジークフリートの大蛇退治。
pict-ノイシュバンシュタイン城 12.jpg

星部屋の装飾はワーグナーのオペラからテーマが選ばれている
城内の撮影は禁止されているので直接の写真は無いが、参考までに城で買ったテキストから写真を拝借。
そもそも印刷が悪いので写りも悪いですが・・。

歌人の広間
pict-ルードビッヒ2世の歌人の間 1.jpg
普通の城であるなら、ここは舞踏会場となる広間であるが、ノイシュバンシュタイン城では歌人の広間と呼ばれている。
歌人の広間とは、文字通りここが歌合戦の会場を意味している。

歌人の広間とタンホイザーとパルジファル
欧州では10世紀頃より吟遊詩人らによる散文詩の歌が歌われ流行している。
ドイツではヴァルトブルク城の歌合戦が有名で、ワーグナーはそれに着想してオペラ、タンホイザー(Tannhäuser)を書き上げている。
※ タンホイザーの正式名称はタンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦(Tannhäuser und der Sängerkrieg auf Wartburg)である

星王はどうしても歌人の間が欲しくて、この広間を中心にノイシュバンシュタイン城を建てたと言われているほどこだわった場所だ。

広間はヴァルトブルグ(Wartburg)城の祝祭会場と歌人の広間を参考にしていると言うが・・。
とは言え、このアラブの意匠の入った不思議な装飾はワーグナーがルードビッヒ2世に捧げた
とされるオペラ「パルジファル(Parsifal)」に由来している?

※ 舞台装置画家クリスティアーン・ヤンクはエドゥアルド・リーデルの設計を書き換えて王の好むスタイルに変えていた。

絵画はアンフォルタス王とパルジファル
pict-ルードビッヒ2世の歌人の間 2.jpg
白いドレスの女性が持って要るのが聖杯。女性はもしかしたら妖女クンドリーか?

パルジファル(Parsifal)
聖杯と聖槍とそれらを守護する騎士団が登場。
アラビアの異教徒クリングゾルは魔法と妖女クンドリーを使ってアルフォンタス王を誘惑。
王は聖槍を奪われたばかりか重傷を負う。

王を救えるのは清らかな愚者。
そこに現れた青年パルジファル(Parsifal)。でも彼は事情が飲み込めていない。
二幕ではクリングゾルはパルジファルを誘惑するが失敗して聖槍をパルジファルにとられてしまう。
三幕ではパルジファルが聖槍を持ってアルフォンタス王の前に進み傷を治すと聖杯の騎士に列するる事を誓う。

パルジファル(Parsifal)はルードビッヒ2世に求められて書かれたらしい。
第一草稿は1865年に完成して国王に贈呈するが全草稿が完成するのは1877年。
それから作曲が始まり初演は1882年、バイロイト祝祭歌劇場である。

聖杯伝説も乗っかったいかにもルードビッヒ2世が好みそうなストーリーである。
苦悩する新王はルードビッヒ2世の事なのか?

あるいは聖杯の騎士こそが王なのか?

残念ながら王の存命中にこの広間が使用される事はなかったと言う。
1933年~1939年までワーグナー没後50年で祝祭コンサートが開かれたのが最初らしい。

ルードビッヒ2世の寝室、トリスタンとイゾルデ(Tristan und Isolde)
pict-ルードビッヒ2世の寝室 1.jpg
後期ゴシック、樫の木がふんだんに使われた木彫のゴージャスベッドの天蓋、洗面台、読書椅子など、製作はミュンヘンのペッセンバッハー・エーレングート社製。
既製品ではないだろうが、家具会社に発注したもののようですねびっくり

王の身長は191cm。思ったより大きいベッドである。
眠りと死は同一? 
キリストの復活が描かれていると言うが、このベット、祭壇とか廟(びょう)にしか見えませんね ぽっ


トリスタンとイゾルデ(Tristan und Isolde)を読む婦人
pict-ルードビッヒ2世の寝室 2.jpg
寝室のテーマはトリスタンとイゾルデ(Tristan und Isolde)。それはケルト伝承の散文が後に欧州に広まった物語。

簡単に言えば悲恋の物語である。
いかにも女性が食いつきそうなお話である。それを寝室のテーマに使った王は乙女か? ぽっ
※ トリスタンはアーサー王伝説の円卓の騎士に連なる騎士。でも「トリスタンとイゾルデ」は別の話。

ルードビッヒ2世の執務室 タンホイザー
pict-ルードビッヒ2世の執務室 3.jpg
テーマは先ほど広間で触れたタンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦(Tannhäuser und der Sängerkrieg auf Wartburg)である。
壁絵はJ・アイグナー(J Aigner)

ヴェーヌス山のタンホイザー
pict-ルードビッヒ2世の執務室 1.jpg

タンホイザー(Tannhäuser)
舞台は13世紀
吟遊詩人タンホイザーは恋人がいるにもかかわらず、ヴェーヌス山で愛欲に溺れる。
やがてその生活に飽きると、その世界は消え現実に帰還。

地上ではヴァルトブルク城で歌合戦が行われる。お題は「愛の本質」。
そこで恋人エリザーベトとも再開。しかしここでタンホイザーは過ちをおかす。
非現実の世界で愛欲に溺れていたタンホイザーの「愛の本質」は(精神的な)純潔な愛ではなく、(肉欲的な)快楽の向こうにある愛。

皆の非難を受け、法王に許しを請う為にローマに巡礼する事になった。
が、結局許してもらえず自暴自棄になったタンホイザーは再びヴェーヌス山に逃げようとしていた。
一方、タンホイザーを想う恋人エリザーベトは自分の命を差し出して彼の贖罪を願っていた。

エリザーベトの葬列を見て全てを理解したタンホイザーは狂気から覚めるが彼が真に贖罪されたと同時に彼も息絶える。

あらすじはこんな所であるが、これをどう演出するかでオペラの内容も面白さも
大きく変わる。

ダンス音楽を奏でるタンホイザー
pict-ルードビッヒ2世の執務室 2.jpg

ルードビッヒ2世の個人礼拝堂  聖王ルイ9世
pict-ルードビッヒ2世の礼拝堂.jpg
ルイ9世で飾ったこの祭壇はミュンヘンのJ・ホフマン設計。
ルイ(Louis)は、ドイツ語でルードビッヒ(Ludwig)。ルードビッヒ2世の名は聖人となったフランス王、ルイ9世からもらっている

※ ルイ9世(Louis IX)(1214年~1270年)
※ 聖王ルイ9世については2017年2月に以下書いています。
「フランス王の宮殿 1 (palais de la Cité)」
「フランス王の宮殿 2 (Palais du Justice)(サント・シャペルのステンドグラス)」

リンク フランス王の宮殿 1 (palais de la Cité)
リンク フランス王の宮殿 2 (Palais du Justice)(サント・シャペルのステンドグラス)

公開されている部屋はまだあるが、実際写真は撮影できないので紹介はこんなところで・・。

春のノイシュバンシュタイン城
pict-春のノイシュバンシュタイン城 2.jpg

pict-春のノイシュバンシュタイン城 1.jpg
ワーグナー(Wagner)に捧げげたとも思える城ではあるが、この城が寝泊まりできるようになる1年前(1883年)にワーグナーは亡くなっている。
※ ヴイルヘルム・リヒャルト・ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner)(1813年~1883年)

城の建築費
ところで城の建築費であるが、王は国税を直接使ったわけではない。
王の私財と王室費(国家君主の給料)から城の建設費を支出している。

とは言え、その資金だけでは十分ではなく、ルードビッヒ2世は多額の借金をしてまかなっていた
※ 官僚が度々王に支出削減を進言していたのはこの借金の事らしい。

ヴィッテルスバッハ家の古文書による王室会計の帳簿によれば、1886年の建築終了までに建築に要した費用は6,180,047金マルクだとか。(現在のお金で200億くらいらしい。)

しかし、王の借金は、王の死後に家族から返済されているそうだ。
だから王の贅沢で国を破綻させたと言うのは誤りらしい。


若き王は政治に絶望し、人に裏切られ、個人攻撃され、すっかり人間嫌悪に陥って行ったようだ。
なぜ城を造ったのか? と言う答えは明確になされていないが、王侯なら、城の一つや二つ造るのは自然な事だったらしい。
そもそもドイツやオーストリア圏では冬の住まい(宮殿)と夏の住まい(宮殿)は別である。
それぞれに立派な宮殿を持っているのが常識。

ただ、ルードビッヒ2世が王位について、1866年、内戦が起き、バイエルンはボロ負け。バイエルンの被害はとても大きいものだった。
その上、プロイセンに主権放棄と3000万グルデン(5400万金マルク)と言う賠償金を払わなければならなかった事なども国庫を苦しいものにしていたのだろう。


王の造った城の中でもこのノイシュバンシュタイン城はまさしく彼が夢の中に逃避するのにピッタリの城であったのは間違いない。
が、せっかく造った城なのに172日間しかいられなかったなんて気の毒過ぎしょんぼりもっと居て、城を完成したかったろうに・・。

そう考えると、何だか今も王の魂はこの城にありそうな気がしてきたゾ ぽっ


さて、これでノイシュバンシュタイン城おわりますが、ルードビッヒ2世に関するバックナンバーがこれで一応完成しました。
2018年02月「ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 1 リンダーホフ城(Schloss Linderhof)」
2018年03月「ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 2  ノイシュヴァンシュタイン城 1 冬」
2018年03月「ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 3  ノイシュヴァンシュタイン城 2 タンホイザー」
2015年07月「ルードビッヒ2世(Ludwig II)の墓所 (聖ミヒャエル教会)」

リンク ​​ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 1 リンダーホフ城(Schloss Linderhof)
リンク ​​ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 2 ノイシュヴァンシュタイン城 1 冬
リンク ​​ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 3 ノイシュヴァンシュタイン城 2 タンホイザー
リンク ルードビッヒ2世(Ludwig II)の墓所 (聖ミヒャエル教会)

ルードビッヒ2世が生まれた離宮と彼の乗り物
2015年08月「ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 1 (宮殿と庭)」
2015年08月「ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 2 (美人画ギャラリー)」
2015年09月「ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 4 (馬車博物館 馬車)」
2015年09月「ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 5 (馬車博物館 馬ソリ)」

リンク ​ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 1 (宮殿と庭)
リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 2 (美人画ギャラリー)
リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 4 (馬車博物館 馬車)
リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 5 (馬車博物館 馬ソリ)






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Last updated  2020年07月04日 19時32分43秒
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