2017年4月 大阪城公園 大手口と西の丸の桜
9日日曜朝まで降っていた雨が上がったので大阪城公園の桜の様子を見に出かけてきました。チョット遠回りでしたが、天満の天神さんを通りぬけして天神橋(てんじんばし)から天満橋(てんまばし)に戻る形で西外堀を歩いてめざし、大手前から大手門に回り込み入城。西外堀に着いたのはちょうど昼頃。天気はそこそこ晴れて来た事もあり、そこまで来ると城を目指す人がだんだんに増えてきていました。恐らく花見をするには最後の日曜日。毎夜の雨で夜桜が見られ無かったので皆さん待ちに待っていたのでしょう。大手前から大手門まで、すでに桜並木が満開で(日当たりが良いので)、そこで満足している人もいましたが、とりあえず、西の丸庭園を目指してみました。大阪城は幾つかのブロックに分けられていてエリア毎にそれぞれ楽しめるのですが、天守閣の西に位置する西の丸庭園は1995年11月アジア太平洋諸国の首脳級が参加する国際会議「APEC'95」きに迎賓館が建てられて芝生広場とそれを囲む桜や四季の花が楽しめるように整備されているのです。(有料ですが・・。)今回は西の丸庭園中心に桜を拾って見る予定でしたが、大手門にもこだわってしまいました ※ 2011年09月「空からの大阪城」で天守閣はちょこっと紹介しています。2017年4月 大阪城公園 大手口と西の丸の桜徳川幕府の城大手口 枡形門(ますがたもん)西の丸庭園北政所(寧々)の屋敷跡?大阪城アクセスマップピンクで囲んだのが西の丸庭園→が大手門紫の星印が石山本願寺推定地の碑大手口(大手門)大阪城の表玄関になるのが大手口の門(大手門)である。城には幾つか口(出入りの門)があるので今ならどこからアクセスしてもかまわないが、城の防御の為に堅牢な造りになっているので大手門から観察しながら入るのがお勧めです 西の丸の坤櫓(こんやぐら)から大手口を撮影ゲートまでのストロークは長く左右は堀。門手前の櫓が千貫櫓(せんがんやぐら)である。左が千貫櫓(せんがんやぐら)右が大手口を形成する枡形門(ますがたもん)の一画、多聞櫓(たもんやぐら)徳川幕府の城大阪城と言うと、豊臣秀吉の城と言うイメージがあるが、現在の城は徳川家康により再建された城1620年(元和6年)~1629年(寛永6年)の遺構となっている。※ 秀吉当時の城の残骸は地下に多少残っている程度。秀吉の城を完全に消し去って新たな城を築いたと思われる。大手口の門は寛永5年(1628年)、大阪城再築の、徳川幕府により建造されたもので、幕府による命令で諸大名が城壁を形成する巨大な石を運び込んで造られたものなのである。大手口一の門 高麗門(こうらいもん)大手口枡形内 高麗門(こうらいもん)内側から大手口枡形内 大手門南方塀(写真右が一の門)壁の穴は鉄砲用。 侵入者に対する攻撃用の壁となっている。大手口枡形内 多聞櫓(たもんやぐら)の一部? 壁の巨石に驚く大阪城ではとんでもない巨石があちこちに使われている。中でもこの大手門の巨石は城の威容を誇示する為に表22畳(35.82m2)から29畳(47.98m2)の表面積の石が採用されている。採石地は瀬戸内海小豆島と推定。当時舟にしてもここまでどうやって上げたのかいつも思う所だ。大手口 枡形門(ますがたもん)大手口は防御の為に枡形(四角)構造になっていてL字に門が二つある。(一気に進入できないような造り)一の門は高麗門(こうらいもん)、二の門は櫓門(やぐらもん)と言うのが枡形の一般的な形だそうだ。大手口枡形内 二の門 櫓門(やぐらもん)多聞櫓(たもんやぐら)の一部である。今まで秀吉VS家康の戦いがあった所だと思っていたがそうではなかった。合戦後に全て新しくされているので・・。徳川の時代に新設されたこの枡形大手口内は、江戸時代には商人が定期的に入城。城詰めの大番衆が商人から日曜品など購入する為の市が立ったそうだ。少なくとも江戸の時代は大阪城は長く平穏。しかし落雷による火災が度々。1665年(寛文5年)には落雷によって天守が焼失。徳川慶喜が大阪城を追われた戊辰戦争(ぼしんせんそう)(1868年~1869年)時の大火災。明治新政府は城内の敷地を陸軍用地に転用。その為に昭和20年の空襲で破壊。城はいつのまにかコンクリートのビルになっていた。(昭和の天守)昨年姫路城の天守に登ったが、景色以外大阪城の天守に魅力が無いのが残念だ西の丸庭園さて、本来の目的であった大阪城公園の桜の紹介です。広大な芝生広場の前。写真の場所は恐らくかつての城代屋敷のあたり。徳川時代の西の丸跡地とその南に位置していた城代屋敷と合わせて昭和40年(1965年)、総面積約64,000m2の芝生庭園として西の丸庭園は開園。ソメイヨシノを中心に約300本の桜が植えられた桜の名所となっています。※ 大阪城公園全体では3000本。入園料は本来大人200円だが観桜ナイター期間中は350円になっていた。でも中学生以下無料。(大阪在住の)シニアも無料だそうです。お金取るけど価値はありました。何よりタダの所より人が少なくて静かです。天守から内堀一つ隔てた西の丸は豊臣時代に多くの御殿が建ち並んだ場所だそうです。秀吉没後慶長4年(1599年)豊臣秀吉の正室、北政所(きたのまんどころ)の寧々(ねね)様が一時住んでいた場所でもあり、慶長5年(1600年)関ヶ原の合戦まで徳川家康も住んでいたらしい。※ 豊臣秀吉(1537年~1598年)※ 北政所(寧々)(1548年~1624年)寧々様はその後京都に移り住み、1605年伏見城から化粧御殿と庭園を移築して方丈を造り晩年の19年をそこで過ごす。それが近日紹介の圓徳院である。※ 秀吉と寧々様の霊廟のある高台寺は、昨年紹介済み。リンク 2016年京都 6 (高台寺 1 開山堂と桃山の庭園)リンク 2016年京都 7 (高台寺 2 秀吉と寧々の霊屋)芝生広場からの天守閣左見切れているのが迎賓館。京都二条城の二の丸御殿の白書院をモデルにした純和風建築だそうだが建物が微妙。写真撮らなかったのです。(後からあれが迎賓館だと知った)「APEC'95」で建てられた迎賓館は今は結婚式場とかに利用されているそうだ。大阪城は今回はこれにておわり