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2019年12月25日
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Break Time(一休み)

ブログを毎日書いていた時代にサンシュルピス教会(Église Saint Sulpice)をちょこっと紹介した事があった。
その時、実は教会は映画ダヴィンチ・コードのおかげで収入があったのか、全面改装工事中だったので、外観の写真もなく、また堂内は非常に暗く、おそろしく寒く居心地の良い場所ではありませんでした。
またパリに行った時に写真を撮りたいと思っていながら、前回行った時は忘れていました。残念しょんぼり

普通なら取り立てて行く教会ではなかったのですが、当然目的はダヴィンチ・コードの影響でした。それにしてもパリでは2番目に大きな教会であったそうです。(実感は無かったけど・・)

実は、このサンシュルピス教会は、2019年4月15日に起きたノートルダム・ド・パリの火災により臨時?にパリの司教座聖堂に認定されていたようです。

リンク ​ノートルダム大聖堂の悲劇 1 奇跡のピエタ
リンク ​ノートルダム大聖堂の悲劇 2 1841年の改修問題
リンク ​ノートルダム大聖堂の悲劇 3​ 外周と北翼のバラ窓
リンク ​ノートルダム大聖堂の悲劇 4 南翼のバラ窓と茨(いばら)の冠

司教座聖堂(しきょうざせいどう)については、以前アウグスブルクやミラノの所でも紹介していますが、その司教区の全ての教会の上にある本部になる教会の事をさします。
その為にそこには司教の椅子が置かれます。司教が座る司教専用の椅子(司教座椅子)こそがラテン語でカテドラル(Cathédrale)と呼ばれるものなのです。
因みにDom(ドーム)も同じ司教座聖堂の意味を持つのですが、そちらはDomus Dei (神の家)の意です。

そんなわけでノートルダム・ド・パリに置かれて居た司教の椅子は今サンシュルピス教会(Église Saint Sulpice)に置かれて居ると言う事です。とは言え現物の椅子自体が火災からまぬがれていたかは不明。
当然、サンシュルピス教会にとっては名誉な事です。もっとも大司教区の所在地は一応ノートルダムに置かれているそうですが・・。

リンク ​アウグスブルク 8 (司教座聖堂 1 ゴシック様式の聖堂)

リンク ​アウグスブルク 9 (司教座聖堂 2 ロマネスクのクリプト)

2014年08月「ミラノ(Milano) 6  (ミラノ大聖堂  4 聖堂身廊から)」司教座席でも椅子自体を紹介。
リンク ​ミラノ(Milano) 6  (ミラノ大聖堂 4 聖堂身廊から)
今回は交易の話しをいったん置いて、サンシュルピス教会を再編します。ただ、新しい写真が無いので外観など他から借りて足しています。

パリ司教座聖堂(臨時)サンシュルピス教会

サンジェルマンデプレ教会と​サンシュルピス教会
サンシュルピス教会(Église Saint Sulpice)​と​聖シュルピス(Saint Sulpice)​
​サンシュルピス教会の拡張問題​
サンシュルピス教会の日時計グノモン(gnomon)

​サンジェルマンデプレ教会と​サンシュルピス教会
実はパリの中でも高級住宅区であるサンジェルマンデプレ(Saint Germain des Prés)に所在。
地区教会にサンジェルマンデプレ教会(Saint Germain des Prés)があり、その南側にサンシュルピス教会(Église Saint Sulpice)​が位置する。

サンシュルピス教会の正確な建築年は解明されていないが、もともとサンジェルマンデプレ教会の前身であったサンジェルマンデプレ大修道院が教区の農民の為の教会として同敷地内に建てたのがサンシュルピス教会まりだったらしい。​つまり​当初はサンシュルピス教会の母体がサンジェルマンデプレ修道院だったと言う事だ。

17世紀初頭のサンシュルピス教会(写真はウィキメディアから)ダ・ヴィンチ・コードでは、ここには異教徒の神殿が立って居たと書かれていたが、教会は全面否定。実際、教会の歴史を以下にたどってみたが、メロビング朝の初期、サンジェルマンデプレ界隈は野原だったようだ。

ではサンジェルマンデプレ修道院は? と言えば創設はパリ王であり、メロビング朝の霊廟となった教会である。
献堂者はパリ王のキルデベルト1世(Childebert I)(496年頃~558年)。メロビング朝フランク王国の初代国王クロヴィス1世(Clovis 1er)(在位481年 - 511年)の4男である。
※ 彼は511年に父の死に伴い遺産分割でパリ王国を受け取っている。そして​​キルデベルト王の死後サンジェルマンデプレ修道院に埋葬された事から修道院はメロビング朝の霊廟となる​。​
※ メロヴィング王朝は兄弟が平等に相続すると言うゲルマン法により初代クロヴィス王の死後、領土が分割された。が、その為に兄弟を殺して領土を広げようとする抗争が続いたらしい。

因みに父王クロヴィス1世(Clovis 1er)は、496年異教からカトリックに改宗。
508年パリに都を定めると、妻クロティルダと共にセーヌ川左岸に聖ペテロとパウロに捧げた修道院を建立。後のサントジュヌヴィエーヴ修道院(Abbaye Sainte Geneviève)であるがフランス革命で破壊され今は無い。
※ クロヴィス1世はフランス王国の基礎を築いた最初のフランス王である。悪名高い王だったらしいが・・。

尚、修道院がサンジェルマンデプレ修道院の名称になるのは576年司教、聖ジェルマンがここに埋葬され「野原の聖ジェルマン」と呼ばれるようになってかららしい。
いずれにせよ、同修道院は8世紀にはすでに17000の修道院を束ねるベネディクト会の一翼をになう主力の修道院だったと言う。

ベネディクト会と言えば529年モンテ・カッシーノ(イタリア)に創建されたに非常に戒律を重んじる修道会である。わずか200年足らずで教皇、枢機卿、大司教、ローマ教皇認定の聖人、福者を多く排出する権力ある宗教集団に成長。
その一翼を担う修道院となればローマ教皇以外のいかなる権力にも屈服しなかったと言う。
それ故、後々司教らとの争いは絶えない。

サンシュルピス教会(Église Saint Sulpice)​と​聖シュルピス(Saint Sulpice)​
サンシュルピス教会は6or7世紀頃ブールジュ(Bourges)大司教であった聖シュルピス(Saint Sulpice)に献堂された教会とされているが、先にことわったよう、いつ建立されたか特定できていないらしい。推定で9~10世紀頃。

教会前広場にあるルイ・ヴィスコンティ作「4人の枢機卿の噴水」
噴水越しのサンシュルピス教会​(ウィキメディアから)右の塔は未完。見て解るギリシャ、コリント・スタイルの柱が特徴。塔が無ければ教会とは思えない不思議な造り。​(下の写真もウィキメディアから)

サンシュルピス教会の拡張問題
ところで、教会や修道院は自分の領地の上がりに大きく依存している。当初サンジェルマンデプレ修道院の敷地内に建立していたサンシュルピス教会であったが、サンシュルピスの領地をめぐって1210年パリの司教とサンジェルマンデプレの大修道院長の間に大きな対立が生まれている。​
司教は壁内の教区の領地を主張し、大修道院長は当然それに反論。その後の争いについては定かでないが、サンシュルピス教会は司教直属の管理下に置かれて教会の立て直しや増改築が行われていったようだ。

1615年から1631年の間にサイドチャペルを追加して身廊を広げる工事がされている。それは当初は野原であったサンジェルマンデプレであるが、時代と共に自治区が拡大し人口が増加。何しろサンジェルマンは高級住宅区に発展していくのだからそれにふさわしい、より大きな教会を建設する必要が生じたらしい。
1636年、ノートルダム大聖堂と競合しうる10000人規模の収容力を持つ新しい教会堂の建設をサンシュルピスの教区司祭であったジャン・ジャック・オリエ(Jean Jacques Olier)が提案。しかし、やはり​サンジェルマンデプレの修道院長と司教側との対立によりプロジェクトは凍結。​結局新築にはならず、拡張工事にとどまったらしい。
星もし、この時点でノートルダムを超える教会堂を建てていたらこちらが司教座聖堂になっていたことだろう。
が、どう考えても地区の人々を受け入れるには小さく、1655年、建築家ルイ・ル・ヴォー(Louis Le Vau)(1612 年~1670年)により新しい提案がされる。その後教会は134年の間に6名の建築家が関わり工事を引き継いでいる。
1732年の段階では今度はファサードの問題が生じる。ギリシャ・ローマ風を捨てて、この時新たにコンぺが開かれイタリアのフロランタン・セルヴァンドーニの設計が採用された。

フロランタン・セルヴァンドーニのコンペ作品(ウィキメディアから)
三角形のペディメントが上にある柱で装飾された柱廊で接続された2つの塔。古代風の美しいファサードを成すはずであったが、続く2人の建築家により手直しされる。1770年に壮大なペディメント(pediment)は一応完成をみるが、1770年の落雷で破損。その後は修復される事なく削られ全く別物になってしまった。
※ ペディメント(pediment)・・切妻屋根の三角形の部分
1838年には、塔の完成に関する問題が生じる。
建設はほぼ130年続き最終的に南側の塔は、北側の塔より5mも低く、未完。鐘は1782年に北側の塔に設置。

19世紀中頃の教会(ウィキメディアから)

1870年に完成? したが1871年にプロイセンの砲弾で北の塔は損傷。後に修復されるが北塔(左)のが南塔よりも高く装飾も多い。
増改築の場合、一貫した図面通りになぜやらないのだろう?
教会の建設と言えば数十年単位、あるいは100年を超える場合も多々ある。建築家が変わるたびに予定が変更されて外観に関して言えば、何だかよくわからない物になっている気がする。
もっともノートルダム大聖堂も建築家が独断で予定に無い物を造ったりしている。昔はそんなものだったのだろうか?

外観はともかくサンシュルピスは内部も他とちょっと違う。内部はウィキメディアから借りてきた写真と自分の写真です。自分のは修復中だったから? 内部が暗いです。
※ 写真は全てパブリックドメインになっているものです。

(ウィキメディアから)奥行113m、間口58m、ボールトの高さ34m
天井が変わっているな・・。と思ったら身廊と翼廊、側廊、さらに側廊の外側に連なる小祭壇の部とでは屋根の高さがそれぞれ違う事がわかった。
屋根の高さを敢えて変える事でそれぞれの廊に光を入れる窓を造る事ができる。窓はそれぞれボールト(vault)で支えられている。その窓のボールトは向かい合っているので、複数ならんだ身廊の天井が普通の教会とは違っているのだ。
ある意味非常に凝った造りになっている。建築も普通以上に大変だったであろう。
以下、教会の図面の中に屋根の高さを色分けしてみた。

矢印のGは日時計グノモン(gnomon)の位置。

下は後陣とそこに並ぶ小礼拝堂(ウィキメディアから)

クワイヤ後からの天井

(ウィキメディアから)再び祭壇方面

下の写真は修復工事中に行った時のものです。中がすごく暗くてこれでもかなり明るくしてあります。写真がボケボケでした。


南の翼から北の翼方面を撮影。
北の翼にオベリスク型した日時計グノモン(gnomon)が見える。

サンシュルピス教会の日時計グノモン(gnomon)
実は観光客の目的は、映画ダヴィンチ・コードで出てきたこの日時計にあるのだが、教会の方は重視していないようだ。私が行った時はライン上に椅子が並んでいた。
北翼に置かれた日時計グノモン(gnomon)

(ウィキメディアから)

グノモン(gnomon)の前に敷かれている線が子午線(しごせん)とされる。1744年に敷かれている。
映画ダヴィンチ・コードではこの南北に走る子午線を「ローズ・ライン」と呼んでいるが、実際その名で呼ばれた史実は無いそうだ。それに正確に言うならパリの子午線のライン上にこの教会は無い。
この教会のグノモン(gnomon)のラインはただの日時計の指針と言う事になる
よくよく見ればオベリスクと言うより時計の針の形かもしれない。
参考に下はパリ天文台を基準にしているパリの子午線である。

青いのがサンシュルピス教会である。
フランスのパリを起点とする子午線は1667年に決められ、パリ天文台ができたが1911年にはグリニッジを0度とする国際経線の採用に踏み切っている。
星子午線上にそって幾つかの測量網が点在し、時を計る日時計が置かれていたのだろう。
サンシュルピス内の日時計はその一つであり、教会の鐘がご近所に時を知らせていたのだろうと思われる。

Chapelle de la Sainte Vierge(聖処女の礼拝堂)
クワイヤの後方、シュヴェ(chevet)にある美しい聖母の堂。
下の写真は(ウィキメディアから)

彫刻家ピガール(Pigalle)の聖母子
クロッシングからの入口方面(ウィキメディアから)
パイプオルガンのケースは1776年シャルグランによって設計されたもの。
オルガン自体は1862年オルガン作者カヴァィエ・コルによって造り尚されたフランスで最大規模のもの。(ウィキメディアから)

最初にに戻って司教座聖堂の話しですが、もしかしたらサンシュルピス教会は母体のサンジェルマンデプレ修道院(現在は教会)の権力故に司教座聖堂になり損ねたのかもしれませんね。
由緒で言っても造りで言ってもノートルダム大聖堂よりもはるかにこちらの方があったのに・・。
それが、思わぬ事件で一次的にでも司教座聖堂に認定されて良かったですね。と言う感想でした。

それにしてもあれだけ権力のあったサンジェルマンデプレ修道院(現、教会)ですが、衰退はもちろんフランス革命による大修道院の解体だったそうです。
もちろん財産も没収。蔵書も没収。教会の調度は売られ、内部は荒廃。王墓も壊され捨てられ壊滅的な被害を受けて今は教会になってしまったようです。とは言え解説書はサンシュルピスよりもはるかに内容が多いが・・。

サンシュルピス教会終わります。
前の分2つは削除すべきか・・。敢えて放置か・・。
次回は「アジアと欧州を結ぶ交易路 7」に戻る予定です。
リンク ​アジアと欧州を結ぶ交易路​ 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方






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Last updated  2023年04月05日 04時43分37秒
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