恩師――僕が小学校入学以来、接した教師は何十人いただろうか。教科別になった中学以降を加えれば、数十人の人数の教師に接したはずだが、「恩師」と呼べるほど慕えた教師は2、3人に過ぎない。
◎岸惠子の「私の履歴書」
そのうちの1人とは、今でも年賀状の交換をしている。母子家庭で極貧に近かった掘っ立て小屋の僕の家に偏見も無く家庭訪問してくれ、その教師の担当する(中学時代の担任だった)技術家庭が苦手だったにもかかわらず、終始温かく見守ってくれた。
苦手の教科の担任として、あらためて思い出したのは、5月6日付日経新聞「私の履歴書」のコラムを読んだからだ。5月は女優で文筆家でもある岸惠子で、達意で流麗な筆で生まれてからの生涯を描いていく。
その6回目で、筆者の岸惠子が1948年4月、県立横浜第一女子高(現・横浜平沼高校)に進学してからの在校時代の思い出を語っていた。胸を打ったのは、その後半部のある教師との出会いの記述だ。
◎苦手の数学を教えるのは担任の「団先生」
同校で演劇と舞踊のサークルに所属した彼女は、週3回、銀座の交詢社ビルにあるバレエ教室に、同級生の田中敦子さん(後に女優の小園蓉子)と共に通った(写真=左は小園蓉子)。
バレエに打ち込みながらも、明確には書いていないが、学級委員をしていたというから、成績は優秀だったらしい。しかし英語は苦手で、数学は劣等生レベルだった。
その数学教師が、担任だった。「団先生」と言って、テストではいつもひどい点数を取って叱られていた。ある時、団先生は、学級委員をしていた岸惠子にテストの答案用紙を返しながら「今度の日曜日に自宅に来るように」と、睨み付けて命じた。何しろ戻ってきた答案用紙の半分は白紙で、答えられた問題も×が多く、ひどい点数を取ってしまったのだ。
◎自宅に呼んで説教も、岸惠子を良く理解していた
自宅へなどと言ったら、今なら「セクハラ?」と生徒も親も腰を引くし、外聞を憚って教師も自宅に呼び出したりはしない。
そんな風潮もなかたった、いい時代だった。
訪問した団先生の自宅で、20分もこってりと油をしぼられた。先生の母親が出したお茶に手も付けられず(この記述から団先生が独身で、まだ若かったことがうかがえる)、すごすごと辞す時、玄関の外まで見送ってくれた団先生は、突然、咳き込んだ。驚いて振り返った岸惠子に、団先生は優しい笑顔で、こう言ったという。
「根性を通せ。君には多くの才能がある。好きなことをやれ。人生は短いんだ。苦手なものはやらなくていい」。
◎「人生は短い、好きなことをやれ」と激励した先生は早世
もちろん岸惠子は、先ほどのお説教と全く違う言葉にびっくりした。「え?」と、岸惠子はこの日初めて言葉を発した。その時、「先生はほほ笑んだまま傾いた夕陽を背負って立っていた」のだった。
岸惠子は、振り返る。あの当時も今も数字にはなじめない。そして卒業後に、団先生に心からお礼を言いたいと思った時、先生はこの世にいなかったのだ、と。
当時の若者に多かった結核を病み、団先生はあまりにも早くに旅立ったしまったという。
「人生は短い、好きなことをやれ」と最後に岸惠子に言った言葉は、先の短い自らの生を見据えての教え子への激励、はなむけだったのだ。
もしもっと勉強しろ、とありきたりなお説教で、彼女がバレエ教室通いをやめ、勉強に打ち込んでいたら、後の大女優の岸惠子は生まれなかった。
僕は、団先生と、このような恩師と出会えた岸惠子のふれ合いに胸を打たれたのである。
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