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2023.05.31
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カテゴリ:旅行紀行
​ 称名寺を出て、魚見坂を下ると、「弁天岬台場跡」の碑がある児童公園に出る(写真)。海に近く、その先には造船会社「函館どつく」の工場が広がる。​



​◎弁天岬台場も武田斐三郎の設計​
 弁天岬台場は、ペリー来航後の海防策として、外国船襲来に備える台場を建設した。安政3年(1856年)から文久3年(1863年)にかけてで、設計は、五稜郭と同じ蘭学者の武田斐三郎。五稜郭に1年先駆けて着工され、五稜郭完成の前年に完工した。
​ 不等辺六角形で、上から見ると将棋の駒のような形をしていて、総面積は約38万3000平方メートルだった(写真)。台場に据えられた大砲の一部には、下田沖で遭難した、プチャーチンの乗ったロシアの軍艦ディアナ号の大砲が江戸幕府に献上され、その一部が配備されたといわれる。​



 台場は、江戸湾(東京湾)にもいくつも造られたが、箱館でも造られていたのだ。
 ただ実際の台場跡は、ここではなく、函館どつくの敷地となっている。近いので、この児童公園に碑など設置したようだ。

​◎箱館戦争で立てこもった旧幕府軍は新政府軍艦船と激しい砲撃戦​
​ せっかく造った台場だったが、実際に使われたのは、内戦である箱館戦争の時だった。台場に立てこもった旧幕府軍は、箱館奉行の永井玄蕃の指揮の下、新撰組と共に新政府軍と砲撃戦を展開した(写真=弁天岬台場について簡単に記した標柱に、永井玄蕃の簡単な事跡も伝えられている)。​



 この砲撃戦で劣勢を聞いた土方歳三が馬で応援に駆けつける際、一本木関門で銃撃され戦死している。
 奮闘空しく、箱館市内は新政府軍によって占領されて孤立し、ついに明治2年(1869年)5月15日、永井玄蕃ら旧幕府軍約240名が降伏した。

​◎最後の新撰組局長の相馬主殿が降伏文書に署名​
​ 共に戦っていた新撰組も、降伏した。だから、ここに「新選組最後の地」の石碑が建っているのである(写真=一番上の写真の左)。​
 この時、戦死した土方に代わって、新撰組局長として降伏文書に署名したのが相馬主殿(たのも)であった(22年2月16日付日記:「最後の新選組局長『相馬主殿』、敗退続きながらも最後まで土方と行を共にした新選組生き残り、維新後も不遇な人生」https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/202202160000/を参照)。

​◎新撰組で京都から箱館まで転戦した島田魁の碑も​
​ また、ここには島田魁のささやかな顕彰碑も建てられている(写真)。


 島田魁は、新撰組創設以来の生粋の隊士であり、池田屋事件や油小路事件にも加わっている(21年3月20日付日記:「幕末に無敵の強さで京の治安を守った武装集団=新選組、戊辰戦争後も生き残った義に生きた武士たちの維新後:前編」https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/202103200000/を参照)。
 鳥羽・伏見の戦いにも参戦した他、最後まで土方と行を共にし、ついに箱館戦争の弁天岬台場の戦いで無念の捕縛となった。
 明治以後は、新撰組隊士の菩提を弔うため念仏をかかさず、近藤勇と土方の戒名を書いた布を常に懐に携えていたという。
 島田について特筆すべきは、後世に新撰組の事跡を伝えるための『島田魁日記』や様々な記録や品々を残したことだ。これらは、ともすれば賊徒、殺人集団として歴史に埋もれがちな新撰組の研究にとって重要な史料となっている。
 明治33年(1900年)没、享年72歳。
(この項、続く)

昨年の今日の日記:「奥日光の山旅③:久々の山行にへばる;中禅寺湖畔もルンルンのハイキングとならず」https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/202205310000/​





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Last updated  2023.05.31 04:26:52



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