週刊《ひとりごと》増刊号:煩悩の片棒
増刊号:煩悩の片棒ミーコさんの《お慈悲のままに》は、2019/10/2分の記事《信心決定と無関係なこと(What Is Unconcerned in the Realization of Shinjin)》をば。↓病気が治りたいというのは私たちの煩悩ですから、如来さまはお前の病気を治してあげようとは言われません。・私の病気を治してくださったり、お金持ちにしてくれたり、あるいは頭をもっとよくしてくれたり、入学試験を通してくれるとか、そんな煩悩の片棒はかつがれません。・そういう煩悩の片棒を担ぐのは、神さまでも仏さまでもなく、同じ煩悩を持っている人間でしょう。・たとえば、入学試験にご利益がありますと言っている神社があるとしたら、それは神さまがおっしゃっているのではなくて、たぶんそこの神主さんが言っているのでしょう。【『浄土の哲学 高僧和讃を読む 上』大峯顯】↑(ココからミーコさんの感想) 「正信偈」には、「よく一念喜愛(いちねんきあい)の心を発(はっ)すれば、煩悩を断ぜずして涅槃(ねはん)を得るなり。( When the one thought-moment of joy arises,Nirvana is attained without severing blind passions.)」と書かれていますように、「一念の信心を得たなら、煩悩を断たずに救われる」のです。 ・従って、煩悩具足の身のまま救われるのですから、信心決定と煩悩とは関係がないことになります。・ですから、上記にありますように、仏さまは私たちの煩悩の片棒はかつがれないのです。・でも、私たちは煩悩で悩むことがあっても、信心を頂いた上は、如来に守られているという深い安心を得られますから、前向きに人生を送ることができるといってもいいでしょう。 ↑(そして当方の感想)そーいや、以前何かのカルト宗教モノの本で《韓流歌うキリスト教系新興宗教》とか紹介とかされてたのとか思い出しまして。・『🎶カネが欲しい~!🎶ハ~レルヤ!🎶病気が治れ~!🎶ハ~レルヤ!🎶社長になりたい!🎶ハ~レルヤ!』…とかラップ調とかで歌う、ぶっちゃけ《現世利益の追求のヤツ~!?》…て、すあだ調になっちゃいまして、まこと恐縮です…が!!先のラップの《ハレルヤ》のトコとか、《南無阿弥陀仏》とかに置き換えてしまいがちなのが、私達であります。あさまし(嘆かわしい)、あさまし。