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カテゴリ:イスタンブールで人と会う
【6月1日・月曜日】 5月初旬に松陰さんと一美さん、お2人の代理で買っておいたお土産が、ガラス製品だったり陶磁器だったりした分は、割れたり傷がつかないように、発泡スチロール系の内装材で個別にくるみ、日本まで無事に持ち帰って貰えるようにしておいた。 また衣類関係で、あちこち歩き回っても見つからなかった既成品は、注文で作って貰っておき、はるばるアンタルヤから戻られた時に「やっぱりありませんでした」と、がっかりさせないようにしておいたので、お2人とも満足してくれた。 時刻は3時少し前、今日は私も特に急ぎの仕事もしていないし、お2人の予定を聞くと、長丁場の大役を果たしてホッとしているところなので、言わばフリータイム。そこで、自分にとっても長い間出来なかったイスタンブールの繁華街ベイオールぶらり歩きにご案内することとなった。 タキシム広場の奥にあるホテル街からのんびりと歩いて、イスティクラール通りに入り、お2人の希望である教会を中心に見て歩くことになった。 バルック・パザール(魚市場)内の「アルメニア教会」と、イスティクラール通りのガラタサライ広場からほどなくの「聖アントワン教会」、そしてもうイスティクラール通りの終点に近い「サンタ・マリア教会」の3つを見たが、喜捨に当たる蝋燭を購入して火を灯す。 この3つの教会にはやはりそれぞれに歴史があり、荘厳な、神聖な雰囲気を味わって外に出た。 バルック・パザール(魚市場)の中にあるアルメニア正教の教会 聖アントワン教会の大聖堂、シンプルでしかもきれいです。 このステンドグラスの美しさを見て下さい。 サンタ・マリア教会は内部撮影が禁止です。 サンタ・マリア教会から、イスティクラール通りを見上げる。崖の下ですね、まるで。 一美さんが途中でお土産にナッツを買ったので、その店でパイ生地を重ねた間にピスタチオや干し葡萄を挟んだお菓子を買い、またバルック・パザール方面に戻って、ガラタサライ高校の先からジハンギルの方向に通ずる道に曲がることにした。 そこはチュクルジュマのわが家からイスティクラール通りへの近道としてよく利用している道、途中にギリシャ領事館のもと領事部があり、かつてはビザの申請で行列が出来ていたものだが、領事部は今、イスティクラール通りに面した本館に移転している。 ベイオールには、オスマン朝時代にはイスティクラール通りの両側にたくさんの大使館があり、その他の公館も数々あったので、共和国設立後、遷都して大使館がアンカラに移転した後は、たいていが領事館として残っているのだった。 ギリシャ領事館の建物を過ぎて間もなく、一美さんが「あら、ここへ前にきたことがあるわ」と曲がり角の奥を指差した。4月下旬に、映画のとある部分の撮影が行われたソカク(横丁)だったのである。 昔このあたりは、コンスタンティノープルの対岸でペラと呼ばれていた当時、イタリア系の都市国家ベネティアやジェノヴァ人の居留地だった。オスマン帝国では、ベネティア総督をベイレルベイと呼び、その息子(ベイのオール)が住んでいたので、ベイオールと言う名が残ったのだそうだ。 その屋敷跡はイスティクラール通りの終点に近い方にあり、オランダ領事館脇の横道の急坂を下りて行ったところで、現在イタリア領事館となっている。 さて、イスティクラール通りを戻り、ガラタサライ高校の正門の少し先の脇道から入ると、有名なハマムがあったり、建物の中にパサージュ(小路)があったり、お2人の目から見るとなかなかの異国情緒の漂う地域であるらしい。 やがて八百屋を覗いたり、スーパーに寄ったりして最後はジハンギルのフィリズ・アー・ジャーミイの下にあるチャイハーネ(茶店)に寄って休憩することにした。 ここではチャイを飲む人は、店の人に一言いえば、多少自分の持って来た軽食を食べてもいいことになっている。私は先ほどの菓子を広げてお2人にも味わって貰った。 5時半過ぎだったので、ずっと歩いていて小腹が空いたのでちょうどいい。甘みもほどよく、バクラバのように積み重なったパイ生地に、シロップもかかっていないので食べやすかった。 選挙運動の最中とあり、賑やかな法華太鼓みたいな音がしてきたと思ったら、クルド系のHDP(国民民主党)の若者達で、他党の旗に埋め尽くされたジハンギル交差点の一角で、ずっと太鼓を叩いて軽く踊ったり歌ったりしていた。 HDPの選挙応援団。タンバリンのような太鼓を叩いて躍ります。 「ここの街はまた、さっき通って来たところとは全然雰囲気が違いますね」とお2人は言う。 ジハンギルはタキシム広場からスラセルビレル通りを真っ直ぐに降りて来た地区で、有名な映画監督や古今の主役・脇訳俳優達、テレビのキャスター、大物歌手、新人歌手などが、普通にその辺を歩いたり、カフェにたむろしていたりし、しかも市民は、有名人がいてて当たり前なので、追いかけてサインを求める、などと言うことは誰もしないのだった。 そんな四方山話を披露し、私が人生で初めて映画撮影の通訳(テレビでの仕事は数々やってきたが)として、音声技師の松陰さんや記録係の一美さんのそばで働かせて貰ったことで、映画の撮影と言うのも最大級のハードな仕事であることをやっと認識したのだった。 お2人が帰国される前に、こうして自分のエリアをご紹介出来たことを幸せに感じ、楽しい再会のひとときを過ごせたことを感謝しながら、しばらくチャイハーネで、通り過ぎる人々を見ながら歓談した。 田中監督さんはじめ、こういう映画撮影のエキスパートの方々が、臨時雇いの通訳達を、ちゃんと仕事仲間として大事に扱ってくださるのを経験し、有難いことだと思った。 そのうちに、風が肌寒いほど涼しくなってきた。ふと時計を見るともう7時をだいぶ回っている。名残惜しいがそこでお2人とお別れし、私は猫どもの待つ家に向かい、タクタキ坂にも張り巡らされた満艦飾の政党旗がはためくのを見ながら階段を下ったのだった。 タクタキ坂にもこんな風に沢山の旗が・・・ アントニーナ・アウグスタ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015年06月04日 17時25分04秒
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