西日本新聞2月5日付朝刊の拙稿
石井洋二郎『フランス的思考』(中公新書)によれば、ランボーはリセの教師宛のいわゆる「見者の手紙」で、”je pense”(私は考える)の替わりに”on me pense”(homme penseのシャレでなく! 人が私を考える→人が私の脳を使って考える?)という文法違反をあえて犯したと。
デカルト的な主体である自分が自由に考えるというのはマチガイで、実は世の中(世論、オピニオンリーダー諸々)の影響の下、「未知なるものの訪れにみずからを明け渡す」中での創作に作者を名乗るのってどうよ…、みたいなことか?
といっても、自分の思考が外からの信号に動かされているわけでなく、単にそう意識しているだけだから “中導体”というほどでもなさそう……なかなか微妙なところだ。この一つの発展形としてブルトン発案の自動書記があるんだとか。
拙稿は連想を追いかけたらうっかりこうなったケースと、着地点の見当をつけてから始めるケースが混ざっている。自動ないし半自動だが、連想や解釈の仕方にはいつものクセが出まくる。なので文体だけはせめて無色透明にしたい、と。ロラン・バルトによれば、カミュの『異邦人』がひとつの理想形((零度のエクリチュール=文体の不在?)らしい。