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タクシーは、空港から3~40分程で私がロンドンで最初に住み着いたウエスト・ケンジントンという地下鉄の駅と同名の地域に到着した。道路の名前は確か50コモラロードだったと記憶をしている。タクシーの運ちゃんは、正確な場所を見つけるのが面倒らしく多分ここを10件ぐらい後ろに歩いたところだと思うと言って、私と荷物をタクシーから降ろした。
タクシー料金を払う段階になって、運ちゃんは「16ポンド(シックスティーン パウンド)」と言ったのを「60ポンド(シックスティ パウンド)」と聞き間違えた私は、彼に20ポンド紙幣を3枚渡したところ、ちょっとビックリした運ちゃんは「ユー・ラッキー!(運が良かったな!)」と言って20ポンド紙幣を2枚私に返して、去って行った。 いま思えば、あの頃の1ポンドは約700円~900円位の換算率だったとして、約42000~54000円もの大金を渡してしまうところだった。恥ずかしい話だが、為替もろくに知らずにロンドンに行きこんな目に会ったにもかかわらず、実際のポンドの貨幣価値が分かるようになるまでは暫くかかったように思う。その後も、何回かタクシーで空港からケンジントンまで乗ったことがあるが、16ポンドプラス2ポンドのチップで約18ポンドが正規の料金なので20ポンドを払っただけで済んだのは助かった。本当にあの運ちゃんで運が良かったと思う。さてタクシーを降りたところは、赤レンガの3階建てのビルが両側に並ぶ所謂居住地区で、目の前にはアラビックな叔父さんが煙草や食料品などを売っている雑貨店が一つ、私の立っている後ろはちょっと地中海の建物を思わせるような白いアーチが入り口になってその奥は石畳の道が続いていた。8月の太陽はまだまぶしいが、からっとした温度は日本で言う秋口の過ごしやすい日だった。その白いアーチの横には、真っ赤な公衆電話がまぶしい太陽の光を受けて鮮やかな色を放っていた。空港で既に公衆電話のかけ方に慣れた私は、早速そこからフローレンに電話をしてみた。「は~い、フローレン。アイム ヒア」みたいなことを言ったと思う。彼女は「ワット、ビルディングス・ユーキャンシー?」みたいなことを聞かれ(あくまでもこんなことを話したような気がする程度であるが)「アイ・シーリトル・ショップ」的なことを言うと、「アイ・シー・アイ・ノウ・ウェア・ユーアー・ドント・ムーブ・ゼアー(貴方のいるところは分かったので、そこを動かないでね)」と言って電話は切れた。数分後、「ハーイ、とっち。ナイス・トゥ・シー・ユー・アゲイン」と言いながらフローレンが足早にこちらにやって来た。私は、彼女に案内されてそこから50メートルほど歩いたところにある、50コモラロードに着いた。彼女は一つの家の中を分割して貸している通常ベッドシット(部屋の中にベッド・冷蔵庫そして調理場がついており共同のフロ・トイレが3階に一つ付いている)と呼ばれているところに住んでいた。これは全く一つの家を分割しているので、通常一階の部屋は居間として作られているので天井は高く大きな暖炉がついている。最もロンドンは1960年代にはスモッグを誘発するため暖炉で石炭を燃やすことが禁止されているので、殆どの暖炉は電気やガスを使っている為暖炉としての機能すなわち煙突は使用していない。 話はそれてしまったが、フローレンの部屋は2階(イギリスでは1階がグランドフロアーで2階は1階(ファースト・フロアー)と呼ばれるが、彼女の部屋は元ベッドルームとして使用されていたと思われる。その厚いワインレッド色の絨毯が敷き詰められた部屋は、ダブルベッドを置いても十分なほどの空間があり、その奥には小さいながらも壁で仕切られた別のキッチンがある。キッチンの更に奥には道路側に面しているバルコニーがあり、ちょうどT字路に面しているこの建物から見える景色はまっすぐ正面に伸びる道路のために遮るものは何も無く、素晴らしい眺めを楽しめた。彼女は、私のためにパンとスープと人参を細かくシュレッドしたものに酢と胡椒で味付けをしたもの(フランスでは良くこれをサラダとして食べるらしい)を用意してくれた。食事をしながら、積もる話を身振り手振り、そして英和辞書を交えながらした後で、彼女は「私は、これから仕事に行くのでとっちは少し休んでね」といって外に出て行った。私は、まだ「ようやくイギリスに着いた!」という興奮から覚めない為か旅の疲れも殆ど無く、まだまだ眠る気にはなれなかった。彼女が仕事に行った後、暫くベランダに椅子を出して外の空気と風景を楽しんでいたのだが、急に睡魔に襲われ気がついたときには街燈の光が入る部屋のベッドの上で眠っていた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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