坂本完春先生に捧ぐ。
大学を卒業して歌を辞めてから立ち直るまで2年の歳月がかかり祖母が倒れそして闘病に2年、そしてその後バーンアウトシンドロームにかかった母との闘いが丸2年。まだすべてが終ったとは言い切れませんが本当に少しづつ本来の自分を取り戻しつつあります。自分でも驚くくらい走り続けていて心も身体も疲れ果てていたことにやっと気が付きました。私は一生懸命走っていたつもりなのに実は亀よりも遅く歩いていたようで気が付けば周りの仲間達は結婚し、親になって、確実に変化を遂げていきました。昨夜部屋を片付けていて封を開けないままだった大学の機関誌を明けて大変驚きました。懐かしい先生のお写真がトップに載っていたから。2004年の秋、ご退職されたのですね。あの懐かしいレンガ造りの校舎に行ってももう先生はそこにはいらっしゃらないのですね。いかがお過ごしですか?今ではもうあの時の身近な仲間達の連絡先しかわかりません。無性に先生とゼミのメンバーに会いたくなりました。WEBという空間でいつか誰かが私がここにいることを見つけてくれるかもしれない。届かないお手紙を記しておきます。先生が共同作業で翻訳された「シェイマス ヒーニー 1966から1991」1995年に出版され同年ヒーニーがノーベル文学賞を受賞、翌年に先生が日本翻訳出版文化賞を受賞されたことは存じておりました。改めておめでとうございます。あの時授業で聞いていたヒーニーを先生がいかに愛してらっしゃったかそしてひとつの形として完成させられたことが今の未完成の自分に大きな勇気を与えてくれました。貴方の教え子の一人として恥ずかしくない人間になれたらいつか本当に先生を訪ねてみようと思います。こんなことなら博士課程の研究発表、まだゼミのメンバーが残っていたのに訪れればよかった。ことば、を教えてくださったのは先生でした。私はもうすっかり書けなくなってしまいました。それでもこんな駄文をつらつらと綴るくらい書くことは好きなのです。人生で二度だけ、家族に逆らいました。ひとつは先生のゼミにはいること。同学部内で祖母の永遠のライバルの息子さんが助教授をされていたのですから律儀な日本舞踊の世界でそれを無視して先生のクラスにはいることは家族の中では大事件でした。ふたつめはうたうたいに「なろうとしたこと」夢の切符を誰よりも先に手に入れた私を応援してくださった先生。叶えることはできなかったけれど私、後悔はしていません。卒業してから何度目の春が来るのでしょうか?あの時の気持ちにもう一度戻れた気がします。ヒーニーの詩集を枕元において読み返す日々が続きそうです。