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10月である。二期制の学校では秋の新学期が始まる。日本では勉学、読書に絶好の季節である。新しいことを学ぶ、今まで学んできたことをさらに深める。今である。 放送大学の学習センターに9月中旬に行った。図書室、視聴覚室を利用している人はまばらである。利用しているのは、ほとんど中高年である。夏休み中とあって若い人はいない。新学期の学生募集の掲示やパンフレットがおかれている。このパンフレットのなかにすばらしいものがあった(生涯学習センターにも置かれているかもしれない。目に付いたらぜひ手に取ってほしい)。「エッセイ集 自分を変える力」というタイトルである。放送大学が「月刊東京人」という雑誌社とコラボしたもので、言ってみれば編集を丸投げしたようなものだ。蛸壺型の学者とは違う発想の編集である。「放送大学探訪記」はマンガ家の久住昌之による放送大学紹介である。すでに放送大学に入っている人には、新知見なしのつまらない文章であるが、川本三郎(文芸評論家)、隅研吾(建築家)、小川糸(作家)、為末大(オリンピックメダリスト)の4人の短いエッセイがすばらしい。この4人の人選が編集の妙である。ペラペラの冊子であるが、内容が濃い。5分で読めるくらいであるが、生涯学習応援のパワーたるや、金メダルくらいの重さがある。 川本三郎は「大正幻影」、「白秋望景」などの著書があり、「荷風と東京-断腸亭日乗」という著作で読売文学賞を受賞している。永井荷風を深く読んでいる人らしく、エッセイは、短かい「荷風論」になっている。今マスコミでは「知の巨人」がもてはやされているが、川本は、「知」と「教養」の違いから文章を始めている。「知」が今とかかわるのに対し、「教養」は昔と近接する。「知」は流行に振り回されるのに対し、「教養」は昔を大事にする、というテーゼを掲げる。永井荷風は明治12年に生まれ、昭和34年、79歳で没した。若き日、アメリカ、フランスに留学、「知」を学んだ。フランスの音楽家ドビュッシーを日本で最初期に紹介した。明治初期に生まれた荷風は「知」を学びながら、父親の代から受け継ぐ「教養」が荷風の根底にあった。その「教養」とは、明治の日本人に親しかった「漢文学」、江戸の戯作文学、そして俳句であった。作家にとって「教養」が、はっきり現れるのが文章である。荷風の代表作の「断腸亭日乗」の端正清雅な文章は父から受け継がれている「教養」がある。荷風は二度結婚したが、まっとうせず、生涯を単身者として生きた。川本は次の文章で、このエッセーを閉じる。 「孤独を感じることもあっただろう。寂しくもあっただろう。それでも七十九歳まで生きた荷風を支えたのは、むかしと重ね合わすことができる「教養」があったからだろう」 小川糸は「食堂かたつむり」、「つるかめ助産院」等のベストセラーを書いている若い作家である。中学時代の塾の先生の言葉が人生を決定しているようだ。授業とは関係なく、その先生はつぶやいた。「目の前に二つの道があったら、より困難な方の道を選びなさい」と。その時、この言葉の意味はよくわからなかった。大人になって、この言葉が生きる指針になった。人生は常に選択しなくてはならない。楽な方の道を選べば、努力しなくても快適だ。けれど自分の成長をもたらさない。困難な道は、苦しく大変だが、結果として自分に成長をもたらす。塾の先生の真意がこんな風にわかった。今ベルリンで生活している。言葉を話せなくても何の問題もなかった。去年初めて言葉が話せないことをもどかしく思った。孤独感も味わった。二つの選択肢が現れた。日本に戻ること、もう一つはドイツ語を勉強しベルリンとの関係を深めること。心が揺れたが、背中を押したのは塾の先生の言葉だ。ただの小説家でありたくない。人間としての根本的な力をつけること。今、日々ドイツ語の学校に通っている。四十台の大きな目標ができた。 建築家の隅研吾は、2020年東京オリンピック・パラリンピックのメイン会場となる新国立競技場の設計を手掛けている。原広司という建築家とアフリカを旅することで、原の発する短いコメントに原の教養を感じた。教養とは説教でも自慢話でもなく、反射神経の産物である、と書く。 為末大は法政大学のグラウンドでテレビのインタビューに答えていた。ある時、褒め上手の編集者に出会ったことが、知の世界の喜びを知るきっかけになった。 隅と為末のエッセイの詳細は、この冊子をぜひ入手して読んでもらいたい。放送大学の各地の学習センターの玄関ホールの資料置き場に置いてある。学生でない人ももらえる。見つからなかったら受付で「エッセイ集自分を変える力」という冊子をください、と尋ねてみよう。隠し持っていたものをくれるかもしれない。
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最終更新日
2017.10.01 13:18:15
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