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ボールは回る、地球も回る。-深読みオシムジャパンと日々雑感-

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2007.07.05
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-前半から続く-

line-08

で、話は突然変わるが、私は急用で日本に2週間ばかり帰っていて、その用事の合間をぬって、昔の友達と連絡を取って、食事をしたりお茶を飲んだりしていた。

前の帰国の時は、友達がおごってくれたりしていたのだが、今回はみんな割り勘だった。貸し借りの記憶が定かでないので、おごる、おごられるが面倒だったのも理由の一つだけれど、なぜかそうなったのだ。そして、割り勘は分かりやすくさっぱりしていて、いいなあと思ったのだ。

自分の食べた分は自分で払う、とても明快だ。注文したものがまずかったら、まずいと言えばいい。おごりだったら、そうはいかない。

軍隊的な組織では、国やサッカー協会に請求書が行く。家族では、もちろん父親が支払いをする。そうすると、オシムジャパンはこの割り勘的な組織に見える。みんなで食事に行って、食べ終わったオシムさんが、自分の分を払ってさっさと席を立ってしまう。こんな、少しユーモラスな光景が、私の頭に浮かぶのだ。

一般に日本人は、組織的に働く事が得意とされている。しかし、ここで言われている組織的とは、軍隊的または家族的な組織であって、割り勘的な組織の事ではないのをオシムさんは、知っている。そして、その違いは、オシムさんが色々なインタビューで答えている様に、責任の所在に端的に表れている。

日本がかつて戦争に負けた時、軍のトップである天皇を罰するかどうかで、アメリカを中心とする戦勝国の間で、大きく議論が分かれた。上下の地位が明確な軍隊の構造から見れば、天皇の責任は明白である。しかし、事はそうならなかった。

天皇に責任があるかどうかも大事だし、そこには色々な議論があるが、組織というもの自体が責任の所在を曖昧にしてしまう、怖い一面を持っている事も忘れてはならない。

高校野球で、個人の不祥事を連帯責任という訳の分からないもので、解決しようとする。私には、あえて責任を曖昧にしたいために連帯責任を持ち出して来た様に思われる。高校の野球部の選手達は、先生やほかの部員に迷惑がかからないようにと、タバコを吸うのを止める、下級生を殴るのを止める。

サポーターが負けた選手に優しすぎるというオシムさんの言葉は、個人攻撃という感情的なものではなく、負けには必ず原因があるという勝負の合理性から来るものだ。責任は攻撃ではない。負けた原因を直さなければ、次も勝てないのだ。

だから、ちゃんと個人で責任を取れるのが割り勘的な組織と言えるのだが、それは組織と言うよりも、ひとりひとりが自主的で、生きてゆく技と知恵と責任能力のある個人の集まりと行った方がピタリとくる。

誰かの間違いを指摘する事も出来るし、逆に誰かから間違いを指摘される事もある。選手の位置や立場が変わっても、この関係は変わらない。軍隊や家族では、立場が変わると関係が変わってしまう。

メンバーの年齢や技術や知識の実力の大小によって、自然に序列が出来てしまうのが、軍隊や家族的な組織だとしたら、割り勘的集まりでは、技術や知識は共有される。たとえて言えば、著作権はあるが利権はない。サッカーの優劣はあるが、それは上下ではない。

この事は、中田英の代表への復帰に関して、「彼の才能が欲しい、けれどそれで自分が優れていると思ったらそれは間違い」という、少し分かりにくいオシムさんの言い回しの中に良く表れている。

こういうふうに見てくると、組織とは、みんなが協力してエゴがないという様な良いイメージの裏に、人を強制的に使う力や、責任をうやむやにするという事が、そっと隠されているのが分かる。

割り勘的集まりでは、個人として責任は重い。オシムさんからの命令はあるだろうが、そこにはイヤな強制力がない。だからこそ挑戦してみたいし、やりがいもある。責任の緊張感と、自由の開放感が選手を惹きつけている。

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先日、日本に帰国中に、サッカーの初めての生観戦として、6月23日に新潟と千葉の試合をフクアリに見に行って、オシムさんが指揮をとっていたチームでもあるし、巻も羽生も知っているので、ごく自然に私は千葉側のスタンドに座った。

とは言っても、ゴール裏のサポーターの様に、熱い心で千葉を応援していた訳ではなかったが、先制点を取られた時は、少し頭に血が上って、追加点を取られた後はもう、必死で声を出していた。そして終盤、羽生がゴールを決めて1点差に詰め寄った時には、こぶしを何回も突き上げていた。勝つ事よりも、負けそうなのが本当に悔しかったのだ。勝負の世界では、負けが勝ちに変わる事は絶対ない。それが1回きりの現実なのだ。

おそらく、オシムさんにとって、サッカーはゲームではない。人生と同じくリセットがきかない、一回きりの冷酷な現実なのだ。サッカーで選手が銃で撃たれて死んだりする事はないが、勝ちは勝ち、負けは負けという戦いの残酷性はいっしょだ。

だから、オシムさんの選手に対する接し方も、より厳しいものにならざるを得ない。

今までの、選手としてそして監督としての全ての経験と知識、技術、そして変貌し続ける現代のサッカーの分析に、惜しみなく労力を注ぎ込み、それを選手に伝えようとする。

それはさながら、若者を戦場に送り出す共同体や部族の長老の視線を、私に思い起こさせる。とにかく、生きて帰って来いと、ありったけの知恵と技術と魂を授ける。

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こういうオシムさんのサッカー哲学と、視線、接し方を実際に受けた選手達は、これからどういう戦いを見せてくれるのだろう。

ネットのニュースによると、オシムさんと選手達は無事アジアカップの戦場になるハノイに到着して、早くも雨の中で練習をやったという事だ。いよいよだと、ちょっとドキドキするが、これから1ヶ月、声が、ベトナムやタイやマレーシアやインドネシアに届く位に、応援したいと思います。





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最終更新日  2007.07.06 04:23:49



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