たった一度だけのシュート
来る日も来る日も、グランドの片隅でカニの横ばいのような動作を繰り返していたあの頃。高校1年の初夏、級友に無理やり連れて行かれたのがハンドボール部の部室だった。サッカー部はコート全面を使って練習していた。硬式野球部は狭いながらも独自の練習場があった。だがハンドボール部のコートはサッカーコートと直角に交わっており、部員が少ないために片隅に押し寄せられていたのだ。 それにしてもカニの横ばいのような動作。腰を落として手を横に突き出し、前後左右にすり足で動く変な姿勢は何のためだろう。これが敵の攻撃を食い止める「バックス」の練習風景だった。余りの運動量と過激さに入部したばかりの新入部員は、空が黄色く見えるほど疲労した。 時にはフォワードつまり攻撃のための練習もあった。当時のハンドボールのコートは広いため、ボールを遠くに投げる練習、パスをつなぐ練習、そしてシュートの練習。一番格好が良いのはジャンピングシュートだ。先輩達のシュートは観ていてもさすがに美しかった。 校庭での練習だけでなく、たまにはロードに出て走ることもあった。隊列を組み、声を出す。「S高ファイトゴー、ファイトゴー、ファイトゴー」。女子高の傍ではその声がさらに高くなった。行き先は折立橋。往復で15kmもあったろうか。帰路の途中からは自由走になり、必死になって走った。そのお陰で青葉城往復の校内マラソンでは9位になり、高校駅伝の補欠にもなった。 部員数がギリギリのため、直ぐに試合にも出られた。だがルールも良く分からず、弱いチームだけにフォーメーションもバラバラだった。相手の攻撃を防ぐための防御でもホールディング(相手を抱える)、ハッキング(叩く)、プッシング(押す)など、現在のルールより遥かに厳しく直ぐにファールを取られた。 出ると負けの試合が続いたが、ある時F商業との試合中に好機が訪れた。味方がボールを奪って敵陣深く攻め入っている。思わずバックスの私も攻撃に加わって前進し、運良くボールを受け取った。敵のゴールは間近にある。「しめた。シュートチャンス!」私は素早くシュート体制に入ったが敵の方が一枚上。何人かの選手が手を広げてシュートコースを狭めた。放ったシュートは相手のキーパーに楽々とキャッチされた。人生でたった一度だけのシュートが点に結びつくことはなかった。 さて、昨夜の日韓男子戦は急いで夜勤から戻り、最後の2分間だけ観戦することが出来た。結果はご存知の通り3点差の惜敗だった。韓国選手の中には、ヨーロッパリーグに参加している選手も何人かいるようだ。それに先日女子が韓国に勝ったのは、サウジアラビアを上位にさせるための「中東の笛」によるものだったようだ。世界への壁はまだまだ厚い。 確か昭和34年だと思うが、宮城野原陸上競技場で当時世界第3位のルーマニアと、私達の先輩も出た全日本チームとの試合を観たことがある。当時の先輩達は優秀で強かったのだ。でも、さすがに世界の3位は強く、全日本チームは相手にならなかった。記念に泥だらけのルーマニアチームのストッキングを拾って来たのを覚えている。日本のハンドボールの行く手は厳しいが、これを機に少しでも前進することを願っている。 ☆1月のレース1回 走った回数14回 走った距離247km 歩いた距離168km(自転車走行距離の40%を含む) 合計415km 年計も同じ 走行距離累計61、937km