カテゴリ:生活雑記
東北地方でも今日から梅雨に入ったとか。まだ雨が降り出していないため、あまりそんな実感はないのだが。一方早くから梅雨入りした沖縄では、つい2、3日前に梅雨が明けたと聞いた。きっと今頃は連日30度を超える暑さになっているのだろう。その暑い沖縄本島を、来月は1人で縦断を試みる予定だ。
さて、さる方が言葉の遣い方で嘆いておられた。いや正確には、かなり憤慨していたと言った方が適切かも知れない。その対象になったのが「五月晴れ」。本来は梅雨の合間の晴れ間を差すこの言葉を、新聞社が取り違えて使っていたと言うのだ。でも私はそんなことで憤慨しても仕方がないように思うのだ。 言葉の意味が時代によって違って来るのは当然のこと。人間は間違って言葉を使うことも結構多いし、どんどん変化するのが言葉の特徴とも言える。それに、その言葉が良く遣われていた時代と現在とでは大いに状況が違っている。第一に使用していた暦が違うのだ。 現在私達が使っている暦は太陽暦。これは地球が太陽を公転する周期を用いている。4年に1度だけ2月に1日分を追加して誤差を埋めているが、それでも狂うため「うるう秒」を挿入することもある。一方月の満ち欠けを基に作られた暦が太陰暦。これだと1ヶ月は29.5日で、太陽暦より1年で約11日間短くなる。 この両者を併せて作られたのが太陰太陽暦でいわゆる旧暦に相当する。中国で用いられたほかギリシャ暦やユダヤ暦も旧暦の仲間だそうだ。旧暦では誤差を解消するために19年に7度、閏月(うるうつき)を挿入する由。日本の古い文献でも「閏二月」とか「閏八月」などの記載に出くわすことがある。「秒」でも「分」でも「日」でもなく、正規以外の「月」を別に作るのだから何とも大らかな時代だったのだ。 「五月晴れ」もこの旧暦を使っていた時代の産物。まして日本のマスコミが良く用いる「立春」や「啓蟄」などの二十四節気は、旧暦の北京周辺の気候を基準にして作られた言葉なので、現在の我が国の季節感と異なるのは当然のことなのだ。そちらを問題にしないで、「五月晴れ」の本来の意味を説いても虚しいように思う。 まだ旧暦を用い、人口の9割以上を農民が占めていた時代は、春になって種を蒔く時期を山に残る「雪形」で判断することも多かったとか。先日大震災に見舞われた栗駒山も「駒」=馬の雪形が名前の由来と聞いている。山の雪が馬の形になる頃をあの付近の農民は、農作業の目安にしていた訳だ。淋しい話だがそれらの先人の智慧も、農業の担い手が減り、地球温暖化など環境の激変によって、今やすっかり忘れ去られようとしている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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