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マックス爺のエッセイ風日記

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2020.03.19
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カテゴリ:人生論
<58年ぶりに思い出して>

   

 nobody know the trouble I' ve scene

  nobody know but Jesus

 nobody know the trouble I've scene

 glory halelija!

 sometime I'm up sometime I' m down oh yes laud

 sometime I'm almost to the ground oh yes laud

 この歌を始めて聞いたのはまだ高校生の時 今から58年も前の頃だ
 聞いたのは仙台の中心街にあった小さな教会
 歌ったのは、高校生の指導者であったバーヤ
 その教会では、教会の信者をニックネームで呼び合うのがルールだった
 バーヤは当時20歳ほど 東北大学法学部の2年生だった

 なぜバーヤは私たちの前で突然そんな歌を歌ったのだろう 
 思うにバーヤは失恋したのだ
 相手はこれも高校生の指導者だったサユ
 ある洋服屋さんのお嬢さんで当時短大の2年生
 優しくて美しい人だった

 指導者になるほどだから2人とも熱心なクリスチャン
 バーヤはサユに愛を告白し サユはそれを受け入れなかった
 だがそれで2人の信仰心には何ら変わることはなかった

 バーヤの声は哀愁に満ちていた
 心が張り裂けそうな悲痛な声 
 その歌を今もこうして覚えているのは 
 きっと感銘を受けたためだろう

 高校生当時は英語の意味すら分からなかった
 この歌は讃美歌ではない
 ゴスペルかソウルなのかも知らない

  ~ 歌詞の和訳 ~
 
 私が味わった苦しみを誰も知らない
 私が味わった苦しみを誰も知らない 
 ただ一人イエスを除いては

 神に栄光あれ ハレルヤ

 時に私は立ち上がり 
 時に私は倒れた ああわが主よ
 時に私はほとんど地に臥した 
 ああわが主よ  

  <マックス爺 訳>

 今回の断捨離作業中の深夜に、私は突然この歌を思い出して歌った。
 曲はたった1回聞いただけで歌詞もあやふやだったがそれにも拘わらず
 最後までちゃんと歌えた。そして、英語の歌詞も何とか思い出せた
 
 58年前にたった1回だけ聞いた歌を思い出して歌う。
 こんな奇跡があるだろうか だがその奇跡が本当に起きた
 高校3年のクリスマスの日 私は洗礼を受けた
 まだ17歳9か月の多感な少年だった
 その歌を深夜に泣きながら歌った75歳になる俺

 だが声は出なかった。長い独り暮らしで声帯の筋肉が衰え
 喉が引きつり息が詰まった それでも俺は何とか喉をを振り絞り
 声の限りに歌った

 この歌の通り俺は連日の厳しい断捨離で ほとんど地に臥すほど疲れていた
 それでも翌朝は立ち上がって再び断捨離に立ち向かった ほとんど眠ってなかったのに
 状況はまさしく 歌詞の通りだったのだ

 あれはきっと俺1人が働いたのではなく
 神様が背後で守ってくれていたのだろう
 もしそうでなければ、俺はとっくに倒れて死んでいたはずだ 
 それほどの激務だった

 40日間もの長い長い戦いの日々
 俺はほとんど死にかけていたが こうして未だに生き
 奇跡の話を詩に書いている 死の代わりに詩
 かつて沖縄で起きた奇跡がまたもや俺の身に起きた

 洗礼を受けたあと俺は就職し 職場を変わり 夜学に通い
 妻と知り合って結婚し 転勤し 3人の子供に恵まれ
 故郷に家を建て 認知症になった妻にお金を持ち逃げされた
 そして 今では独り暮らしの身となった

 離婚後3年間 全く手を付けられなかった断捨離を今回 俺はたった1人で始めた
 痛む腰 痛む肩 痛む肘 痛む膝 そして痛む手で
 そして不要品を全て捨て 次は庭の改造に取り掛かろうと決めたその夜
 俺はかつてバーヤが歌ったこの歌を58年ぶりに思い出し
 歌ってみたんだよ そしたらシワガレタ声でもなんとか歌えた

 歌いながら泣いた 歌いながらなんでこの俺が今
 こんな夜中に1人で苦しんでいるのかと思った時に
 そうではない あの歌の男も同じだと気づいた

 起きては倒れ 倒れては起きして 神の偉大さにおののく男
 男は倒れながらも神の栄光を讃えたじゃないか
 思い出せ 今の俺があの男そのものだということを
 栄光あれ ハレルヤ

         
       <高校3年以来変わらない私の聖書(右)と讃美歌(左)>

 成人になって、俺は煙草を覚え、酒を覚え、麻雀に溺れるようになり、教会からも遠ざかり聖書を読まなくなった。それでも神社や寺院を巡った時、俺は必ず「アーメン」と心の中で唱えていた。それだけがかつての信仰の薄汚い残骸だった。

 この俺にお墓も戒名も不要。ただ普通の人間として、出来たら心だけもキリスト教徒としての死を望む。体調が戻り次第、また庭を改造する予定。どうか最後まで持ってくれ俺の腰よ。俺の肩よ。俺の肘よ。俺の膝よ。俺の手よ。そしてわずかに残った俺の信仰よ。<完>





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Last updated  2020.03.19 08:51:14
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