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マックス爺のエッセイ風日記

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2021.05.09
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カテゴリ:文化論
~形と意味~

  

 昨日「陰陽石」のことを書いたら、それを観た鹿児島のクマタツさんが、それがあるのは宮崎県の小林市だと教えてくれた。私も確かネットで知ったはずなのに、原稿を書いているうちに失念したようだ。メモはしてるはずなのに、最近は忘れることが増えた。ただし、それに因む画像を保存していたことを思い出した。宮崎県で一番古い「田の神さあ」が陰陽石の地に建てられていると言うからこれも小林市にある訳。そしてこれは神官型の田の神さあだと言うことが分かり、彩色もされている。

                 

 これも宮崎県の田の神さあで、彩色されている。右手に持っているのは「しゃもじ」のようで、上の神官型とは明らかに雰囲気が違うので、きっと農民型なのだろう。私はこの画像を見て、これは「あれ」に似てるなあと直感した。

    みるく神(沖縄県竹富島)

 私が似てると思ったのは、沖縄県の先島地方に伝わる「みるく神」。先島とは宮古島以西の島々。そして「みるく」は弥勒菩薩の「みろく」が転じたものだが、仏教の弥勒菩薩とは異なり、海の彼方のニライカナイ(極楽浄土)からやって来る神で、風体は「布袋さま」に近いだろう。人々に世果報(ゆがふう=豊穣や幸福)をもたらすと信じられるが、果たして九州南部と沖縄に共通点があるのかどうか。

                   

 さて、これまで見て来た神々はすべて石で出来ていたが、上の道祖神は長野県のもので、見た通り稲わらで作られている。道祖神には賽の神、障の神、幸の神、さえの神などの別名があり、いずれも「さい」または「さえ」と呼ばれ、悪霊を封じ込め病魔を退散させると信じられていた。遮(さえぎ)るの「さえ」も同じ語源を持つと思われる。

  

 因みに古代東北の蝦夷(えみし)は武力に秀で、都の人々を怖がらせた。そこで朝廷に服属した蝦夷の中から都を警護する者を選んで「佐伯氏」と名乗らせた。これも「さえき」で、「守る」の意味。また東北の蝦夷を各地に移転させた。佐伯、細木などの地名はそれに由来するもので、真言宗の開祖空海上人も讃岐国(現在の香川県)の佐伯氏の出身。古代豪族にも佐伯氏がいる。

          

 秋田県にも可愛らしいわら製の道祖神を祀る風習があるようだ。また「仁王さん」と呼ばれることもあるようだ。仁王も寺院の門前にあって、聖なる空間を守護する存在だからであろうか。形や素材や呼び名は違っても、日本民族とし相通ずる信仰があったのだろう。

  

 さて、大事なことを忘れていたことに気づいた。宮城県名取市にある道祖神社のことだ。平安時代の延長5年(927年)に編集された「延喜式神名帳」に掲載された全国の官社一覧のうち、陸奥国名取郡の2社がここにあるのだ。明治になって二社を合祀し、「佐倍乃神社」と名を変えた。これも「さえの」と発音するので、相当古い時代から東北でも信仰された何よりの証拠。するとウィキペディアの記述にも過不足があると言うことだろう。

            

 左の道祖神の台座の下部に不思議な形が彫られているのに気付いた。右はその拡大だが明らかに女性のシンボル。石像は「両性具有」だった。私には観音様のようにも見える。「香炉」か賽銭台があるのは聖なるものと崇めた証拠だろう。形が良く似た「桃の種」が奈良の纏向遺跡から3600個ほど出土したのも頷ける。女陰を表す古語の「ほと」は朝鮮語のポティと同源だそうだ。なるほどねえ。ノートえんぴつ

  

 両性具有(りょうせいぐゆう)と言えば、彫刻家アルプのこの作品はさほどリアルではないが、それらしい雰囲気とエロスを感じる。私が初めて彼の作品を知ったのは中学生か高校生の頃のはずだが、フォルムの美しさと彫刻家の意図は感じた。形に込められた人の願いや祈りは、時代や地域や人種を超えているのかも知れない。明日は最終回になるが、果たしてどうまとめたら良いのか。ショック?<続く>





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Last updated  2021.05.09 00:00:11
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Re:生々流転 ~生と性・死と詩~ (9)(05/09)   クマタツ1847 さん
おはようございます。
今回の記事も興味深く読ませてもらっています。

 宮崎・小林の彩色された「たのかんさあ」は鮮やかですねぇ。
これを信仰し見守る人が現在もいて、彩色も定期的にされているということでしょう。鹿児島にも彩色されたものがあると聞いていますが、まだ見たことはありません。

 沖縄県の先島地方に伝わるという「みるく神」が「たのかんさあ」と似ていると書いておられ「果たして九州南部と沖縄に共通点はあるのかどうか」とありますが、それで思い出したのが「石敢當」のことです。
博識なマックス爺さんには釈迦に説法とは思いますが、T字路の突き当りに設置する魔よけの石碑? のことです。

 これは、中国起源で台湾など東南アジア諸国などにもあり沖縄から奄美大島などの他、鹿児島本土に多いと言われます。そのあたりから考えて似た文化? があっても不思議ではないと思いますがいかがでしょう。

 当地の石敢當については古いものを私も数回は当ブログに書いた記憶があります。
私の現在住む団地は40数年前に造成された住宅団地ですが、団地を歩くと現在もそれを信じてT字路に近代的な「石敢當」を設置された家をたくさん見ることが出来ます。 (2021.05.09 08:46:17)

Re[1]:生々流転 ~生と性・死と詩~ (9)(05/09)   マックス爺 さん
クマタツ1847さんへ

今日は~!!
いつもコメントありがとうございます。
とても嬉しく拝見しました。
丁寧にお読みくださってありがとうございます。

昨日クマタツさんのブログに書かせていただいた
コメント、前にも同じことをかいたのを思い出しました。
わずかな知識で書くため、いつも似たようなことを
書くのを恥じつつも、毎回同じ感想を持つのも自分の
感覚が安定してる証拠と考えて安堵しています。

文化は人が伝えるもの。習俗が近いのも人の移動に
よることが原因でしょう。

石敢當は中国の風習が琉球王国に伝わったもので、
本来は中国の強い武将の名前を刻んで魔除けに
したもの。また安全を守る意味ももあります。

琉球を支配した薩摩に伝わったのでしょうね。
石敢當は三叉路に置かれる点で、道祖神に近い
役割を果たしていると考えられます。

逆に南九州あるいは内地から琉球に伝わったと
私が考えているのは、言語、宗教(原始神道や仏教)
そして穀物やある種の農業などです。内地と沖縄との
交流は少なくとも縄文時代からあることが分かっており、
宮古島島までは縄文土器が伝わっています。

以前にも話したように、九州南部の倭寇が沖縄に
基地を作っていたとされ、沖縄本島や宮古島にも
そんな伝説があります。他にも源平ともに沖縄へ
来航したとの伝えもあり、明治以降は「日琉同祖論」
に利用され、沖縄を近代日本に組み込む要素とも
なりました。

繰り返しますが、文化は人が伝えます。人の移動と
交流でしか伝わらないとも言えます。面白いですね。

私もさらに難しいテーマに取り組もうと思っていますが、
浅学菲才の身にはきっと厳しい道程になることでしょう。(;^_^A (2021.05.09 10:37:58)

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