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イラン国民を落胆させた敗北の翌日、アリ・ダエイは背中の痛みを訴え練習場に現れなかった。クロアチア人監督はメキシコ戦でダエイを怪我の為に外すと述べたが、真相は明らかだ。ASモナコで名声を築いた名手マルケスの前に何もできず、暑いドイツのピッチで自らの無力さに絶望し、国民の批判にさらされた事で自ら決断したのだろう。考えてみれば8年前、フランスのピッチに立った29歳のダエイは選手としてピークに達していた。しかし得点はおろか惜しいシュートすら放てずに初めてのW杯を終えている。唯一魅せたのがマハダヴィキアへの絶妙なスルーパスだった。それはプレーオフ、豪州戦でアジジに送ったラストパスと同等の価値があった。20年ぶりのW杯出場、仇敵アメリカからの勝利という偉業を最終的にアシストしたのはダエイの2本のパスだったのだ。しかし当時ピークであったダエイですら特にドイツ戦は何もさせてもらえなかった。アルミメニア・ビーレフェルトでプレーしていたという事もあり、ユルゲン・コーラーやクリスチャン・ヴェアンスという屈強なCBに完封されたのだ。ダエイはその時の悔しさを胸にブンデスリーガで活躍をみせる。名門バイエルンへの移籍、さらにヘルタ・ベルリンへの移籍、そしてチャンピオンズリーグでのアジア選手初ゴール(注:CLの前身チャンピオンズ杯ではブレーメンの奥寺康彦が準決勝で得点している)を叩き込むなど素晴らしい戦績を残したのだ。だがその勲章を胸にフランスでの屈辱を晴らすはずであった2002年日韓W杯への出場を逃す。当時33歳、ここで彼は代表を離れるべきだったのかも知れない。しかし代表を離れたのは彼ではなくダエイからキャプテンを引き継ぐべき立場に居たカリム・バゲリであった。これは推測に過ぎないが、バゲリは若手に道を譲らないダエイに対し身をもって示したのかも知れない。バゲリは代表引退の意を当時所属していたUAEのクラブからFAXにてIFFに伝え、その後A代表はおろかB代表にも決して召集に応じることは無かった。そしてダエイは衰える実力とは裏腹に代表においての権力を拡大する。彼が居座ることで多くの若手FWが代表でのチャンスを奪われ、復帰こそ果たしたがハシェミアンこそがその最たる犠牲者だろう。さらに自らの10番を引き継ぐイマン・モバリを、リーグ戦で生じた確執の為に代表から追いやるなど影響力を増していく。そしてオーストリアで活躍していたパシャザデがインタビューで述べた「フットボールマフィアが私の代表入りを阻んでいる」というセリフが誰を指すのかは明らかだ。実は98年W杯のプレマッチであった世界選抜VS欧州選抜の試合に選ばれたパシャザデが現地にすら姿を見せなかったのもダエイが絡んでいたと言われている。当時エステグラルの1DFに過ぎなかった彼をトミスラヴ・イヴィッチがオールスターに選出した事に真っ先に反発したのがダエイであった。このクロアチアの名将はイランのピルーズィを率いた後、イラン代表監督を短期間務め(ASローマ戦で大敗し更迭)、その後ベルギーのスタンダール・リエージュの監督に就任した際もレヴァークーゼンで干されていたパシャザデを評価し、獲得の意思をみせていたのだ。そしてイラン代表にはいつしかダエイファミリーのような、彼と親交があり、もしくは媚びへつらう選手のみで固められていく。これがサバ・バッテリーのソーラブ・バフティアリザデが3年間一度も代表でプレーする事無く最終メンバーに名を連ねた真相だ。
4年前、日韓大会出場を果たしていればダエイがピッチの内外でここまで悪質な影響力を持つことは無かっただろう。「イランの国民のため」を口癖に13年間チーム・メッリで戦ってきた男は、8年前の悔しさを胸にここまでよくも悪くも先頭に立ってイランのフットボールを率いてきた。確かにダエイはメキシコ戦の敗戦における明らかな戦犯ではあるが、彼はそれでも我々の英雄だ。欠場するのは背中の痛みという名目でもいい、ポルトガル戦はベンチから若手の成長を見届けて欲しい。国旗に誇りをかけて戦ってきたダエイという英雄の背中を見ながら育ってきた若手の成長を。
また決定的なミスを犯したミルザプールもメキシコ戦を怪我で欠場する見通しだ。代役にベテランのルードバリアンで挑むものと思われるが、新進気鋭のタレブルーを重要な一戦で試すのも一興かもしれない。
決して負けが許されないポルトガル戦、図らずも日本代表と同じ立場になったがアジアの力をアウェーの地で証明しなければ、日韓大会でのアジアの偉業も薄れることだろう。アジアは苦境に立たされたが戦いは終わってはいない。