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テーマ:隠居の愉しみ(1115)
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NHK大河ドラマ「八重の桜」が始まった。
一昨年 中山道ウオークの途中 安中にある「新島襄生家」を訪れた折 係りの人から大河ドラマの事を教えていただいた。 年明け早々から放映されるのかと思っていたら 昨年は「平清盛」だった。 清盛は数回見ただけで なんとなく馴染めなかったが 視聴率も低迷していた。 母校の創立者の奥さんが主人公というので放映を心待ちにしていたが順調なすべりだしで結構なこと。 初回は会津藩に松平容保が養子に入った時期が描かれていた。 容保は 高須藩(岐阜県海津町)の10代藩主松平義建(よしたけ)の7男だったという。 義建には10男があり、うち4人は早世したが 6人はみな大名になっている。 長男:源之助 1820年生、夭折 次男:慶勝(よしかつ)(1823-1883) 尾張藩14代・17代藩主徳川慶勝 三男:武成 (たけしげ)(1825-1847) 浜田藩主松平武成 四男:整三郎 1826年生、夭折 五男:茂栄(もちなが)(1831-1884) 高須藩主・尾張藩15代藩主・一橋家藩主徳川茂栄 六男:某 戊辰戦争で切腹 七男:容保(かたもり)(1836-1893) 会津藩主松平容保 八男:定敬(さだあき)(1847-1908) 桑名藩主松平定敬 九男:鐡丸 1849年生、夭折 十男:義勇(よしたけ) (1859-1891)高須藩主松平義勇 男子のうち 尾張藩主の慶勝、一橋当主の茂栄、会津藩主の容保、桑名藩主の定敬の4人を高須4兄弟といったそうだ。 会津藩主容保が京都守護職に就いた時 桑名藩主定敬が京都所司代に就いている。 兄弟力を合わせて 幕末における京都の治安維持に当たったわけである。 会桑2藩は京都で長州藩士の恨みを買っている。 1863年の七卿落ち(八月政変)、翌年の池田屋事件と禁門の変において長州藩士の多くが死んでいるのである。 それにしても 高須の殿様 この10男のほかに9女を設けている。 なんともはや 驚いたものである。 ところが 同時代もっとすごい お殿様がいた。 水戸の烈公 徳川斉昭は なんと22男15女 37人の子を設けた。 そのほとんどが 大名になるか 大名に嫁いでいる。 長男:慶篤 (1832~1868)- 水戸藩10代藩主 次男:二郎麿(1833~1834) 三男:三郎麿(1835~1837) 四男:四郎麿(1835~1836) 五男:慶徳(昭徳)(1837~1877) - 鳥取藩主池田慶徳 六男:六郎麿(1837~1838) 七男:慶喜(昭致)(1837~1913) - 一橋徳川家当主のち第15代将軍徳川慶喜 八男:直侯(昭融)(1839~1861) - 川越藩主松平直侯 九男:茂政(昭休)(1839~1899) - 忍藩主・岡山藩主池田茂政。 十男:武聰(昭音)(1842~1882) - 浜田藩主松平武聰 十一男:縄氏(昭縄)(1844~1874) - 喜連川藩主喜連川縄氏 十二男:余二麿(1844~1844) 十三男:余三麿(1844~1844) 十四男:昭訓(1848~1863) 京で病死 十五男:余五麿(1849~1849) 十六男:忠和(昭嗣)(1851~1917) - 島原藩主松平忠和 十七男:挙直(昭邦)(1852~1892) - 土浦藩主土屋挙直 十八男:昭武(昭徳)(1853~1910) - 清水徳川家当主のち水戸藩11代藩主 十九男:喜徳(昭則)(1855~1891) - 初め会津藩主松平容保の養子、後守山藩主松平喜徳 二十男:廿麿(1856~1858) 二十一男:廿一麿(1856~1856) 二十二男:頼之(昭鄰)(1858~1873) - 守山藩主松平頼之 このお殿様は 手当たり次第だったらしい。 男の子の名のつけ方が いい加減である。 一朗麿~十郎麿・余一麿~廿麿 女の子は 愛姫 松姫等 普通であるが これは 勝手に名付けよと丸投げしたのかもしれない。 容保を調べているうちに方向がそれてしまった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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