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カテゴリ:歴史散歩
岡崎市内にある柴田勝家の墓について調べていたらシンセサイザー奏者の冨田勲に行きついた。
賤ヶ岳の戦いで豊臣秀吉に敗れ北之庄で自刃した柴田勝家には実子がなく、勝家の姉または妹の子 勝豊と勝政を養子としていた。 賤ヶ岳の合戦前、豊臣秀吉は当時長浜城主であった勝豊を調略、離反させた。 一方の勝政は合戦中、豊臣方に討ち取られた。 勝政の子の柴田勝重(当時4歳)は北ノ庄から脱出し母方の祖父である日根野高吉に匿われた。落城の時、勝家愛用の兜を与えられたという。 この頃、日根野高吉は織田信孝の家臣であった。 のち羽柴秀吉に仕え小田原の陣の後、信濃高島に3万8000石を与えられる。 勝重は元服後、日根野吉時の娘を正室に迎えた。 豊臣秀吉死去後、慶長4年(1599)徳川家康に仕えて上野国に500石を賜り、慶長5年関ヶ原の合戦に初陣、その後、大阪の陣の軍功により加増されて武蔵国(調布市仙川・三鷹市)の地を賜った。 その屋敷に勝家の兜を祀ったのが「柴田勝家の兜塚」、社殿を建てたのが三鷹市に今も残る勝淵神社である。 勝重の孫 勝門は延宝8年(1680年)に家督継承。 元禄3年(1690年)従五位下、越前守(のちに出雲守)となる。 元禄4年(1691年)に目付、元禄6年(1693年)に桐間番頭となった。 元禄7年(1694年)に1000石の加増を受け3500石となる。 元禄11年(1698年)領地を武蔵国より三河国に移され、本宿村(現岡崎市本宿)に陣屋を設けた。 また、領地である岡崎市福岡町永井に武蔵国の勝淵神社の分霊を勧請した。 以後、子孫は幕末まで同地を支配した。 本宿陣屋・代官所跡地には現在冨田病院がある。 冨田家は代々代官を勤めた家である シンセサイザー奏者の冨田勲はこの家で育った。病院は実弟が継いだ。 本宿陣屋 ここ ← お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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