カテゴリ:バイク
今日は時折突風が吹き荒れ春の嵐となりました。
私の会社ではインフルエンザで休んでいる上司もいますが、こんな陽気では体調管理も難しいです。 気をつけないと、ですね。 さて、今日は自動二輪の免許のことを書こうと思います。 私はタイトルにある都民自動車教習所に半年ほど通い続け、限定解除をしました。 昭和の時代の話です。 最初はあんなに大きなCB750に自分が乗れるとは思っていませんでした。 私は一番最初に小型二輪、次に中型免許を取り250ccのバイクに乗っていました。 そして今の主人、父さんと知り合ってから、うまく乗れるようになりたいという思いが強くなっていきました。 ある時、父さんが限定解除ができたら俺のバイクやるよ、というので じゃぁ、やってやろうじゃないの!って、その翌日には大型免許の都民自動車教習所に申し込みにいきました。 たしか九月のお彼岸前後の頃だったと思います。 最初はまったく乗れませんでした。 だって、CB750はやたらおおきくて、 またいだ時にお尻を半分落として、 足が片方ギリギリ着く程度でしたから。 若さってすごいですよね。 怖いもの知らずで。 お金もずいぶんつぎ込みました。 当時私は埼玉に住んでいましたが、東京の方が受かりやすい(埼玉は超厳しかったのです)のと東京はバイクも3車種あったので、杉並の親戚の家に住所を移すなどというちょっと裏技的な方法を用いて府中の試験場でチャレンジすることにしたのです。 年末に一度試験受けにいきました。 あっさりと一本橋で落ちてスタート位置に戻って終了。 まあ、こんなものか。。みたいな感じで悔しいとも思わずに帰りました。 教習所では、試験場で当日発表されるコースの3パターンをみっちりと叩き込まれ、とにかくメリハリのある運転とアクセルワークだけで八の字やクランクをすり抜けられるまで腕を磨きました。 ある時、当時付き合っていた父さんの家に行くと、父さんは新幹線の高架の下で、ジュースの空き缶を二つ離して置いて、その周りをクルクルと回り八の字の練習をしていました。 男性とは負けずぎらいで単純な生き物であるとこの時に知りました。 話がそれました。。 練習では何度こけたかわかりません。 足の太ももやわき腹なんか青あざだらけになりましたし。 教官は慣れていたのでしょうけど、私のようなへたっぴいが乗れるようになるまで指導するのだから、相当我慢強い人だったんだろうって今になって思います。 しのさんっていう教官がいて、ちょっと意地悪で優しくて、厳しいけれどわかりやすい教え方をしてくれて。。好きでした(^-^) しのさんもおじさんになっているんだろーな。。 晴れて限定解除ができたのは三月の冷たい雨が降る日でした。 七回目ののチャレンジでゴールした時のあの拍手は、今でも覚えています。 都民自動車教習所、って検索してみたら今はもう練馬にはないみたいです。 所長さんもお亡くなりになったとか。 私が限定解除した頃は、ライダーブームで、上野には多くのショップが競うように立ち並び女性用のウェアなども種類がたくさんありました。 皮つなぎを着て、走った場所は数知れず。 クラブで走るのも楽しかったけど、ソロも楽しかったな。 伊豆、箱根、奥多摩、信州、赤城、秩父、草津、軽井沢、那須、日光、福島、そして北海道。 房総から三浦半島にフェリーで渡ったこともありました。 なつかしい青春。。 これから二度目の青春?を有意義に過ごしたいと思う今日この頃です。 二十数年の間に衰えた体力と運転技術を鍛えてバイクライフを楽しみたいです。 あと二十数年の間に蓄えた体重も何とかしないといけません。 なのに、なのに… 今日もまた飲んでしまいましたf^_^; 長くなりました。読んで下さり有難うございました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013年04月03日 21時05分40秒
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