革命古代史、宇摩説(9) 通説と宇摩説の違い
韓国の歴史書と、日本の歴史書はどちらが先に出来たか?これは、日本の古事記のほうが、ズーット古い。 つまり、古代において、同じように中国文化の影響を受けた。といっても、海を経る日本が、ずっと影響が少ないものだった。にも、関らず、日本の方が先に漢字による歴史書を作っている。 知識や物作りを学ぶことと、心の高さや、思想とは別問題だ。しっかりした日本の志向を持って受け入れると、その思考が間違い無い限り、より一層の発展を遂げるのだ。 明治に、西洋文明がアジアに大挙押し寄せた。これを自分の物にできるのは、同様の高い心があるからだ。しかも、日本式に改良して受け入れた。これは、西洋人と対等ではなく、心では上にいた事を示している。 だから、当時世界最高水準の国に数十年で追い付いてしまった。中韓には真似ができなかった。これは、明治と、戦後の経済発展にも見られる。二度の実績差異は、本質的な心の違いに根拠を求めるべきである。 現在、韓国の心ある人々は、日本を見習おうと呼びかけて、排斥されているが、大衆は自分達の行動が、愚かな事だと気付かない。韓国の戦後政権の教育が、間違ったのだ。が、大衆は、これに気付かない。 心が貧しいと、人の物が欲しくなる。子供のように駄々をこねて、あるいは、脅かして、あるいは嘘を言って、幼児の行動そのものである。このようなことに節度を持つ日本人は、大人と言えるだろう。 明治以後の中韓と日本の社会を見ても、大人と子供の差が、経済などに出ているのであり、この心の高さは、弥生時代の卑弥呼の頃には確立していたのだ。この証明は宇摩説でして居る。 史学でも、学生は教授の説を引き継いで、教授になるから、前回解いたように、卑弥呼の周りに、「馬」の名が多い事に、誰も気付かないし、学者らしい研究の後も見えないと、私は思う。 さて、少し、馬韓について、触れておこう。 これまでの説明で、馬とは、宇摩であり、日本だと言う説明をしてきた。だから、馬韓とは、韓国にある宇摩(馬)支配地との意味を持つ国名である。中国では、覚え良くして、支配者と韓国を組合わせたのだろう。 つまり、「馬韓は、馬(宇摩)の支配する韓の地」の意味で、ほかの辰韓なども、辰の影響下にある韓の地域の意味でしょう。 朝鮮半島に三韓と言う独立国が生まれたが、周囲の国の力を使って出来たもので、それぞれの応援した国の名が付いていると理解すれば、韓国が三韓や、任那を認めない意味が判ります。 また、消された、ミナマ(任那)は、日本語であり、漢字の読みなら、「ニンナ」になります。ミナマは、日本語なら、「皆が馬(宇摩)」の意味であり、先の馬韓と同じ意味です。 しかも、皆が宇摩と言う事は、この地の韓国人は、宇摩の支配を喜んでいたことが判ります。他の国より、豊かで、住み良かったのでしょう。 先に卑弥呼時代の日本社会を解いています。これお思い出せば説明不要でしょう。ローマのように奴隷制が無く、実力社会だったから、韓国でも動揺の社会を作ったはずです。このために、「皆馬(宇摩)」だった。 生活が豊かになれば、人々は恩返しをする。日本に朝貢するのは、当然と言えるでしょう。 倭人伝によれば、日本国内でも、各地の国に、邪馬台国の官が赴任しています。これと同じように、三韓には、それぞれの軍事力の国があり、同様に、日本も官を置いていたnでしょう。 武力を外国に頼って建国したのは、韓国人は不名誉と思うかもしれませんが、他国の支配を受けるより、応援を得て、地域の王が立つ国を作る方が、ずっと、人々のためになったと、私は思います。 つまり、朝鮮半島の南部には、日本の軍備を頼りにした国が、長く存在したと言うことであり、毎年の様に貢物を持て来たと言うことです。だから、日本書紀に、朝鮮の国や、島々から、毎年の御調記録が残るのです。 学者の解明では、「馬」が解けていません、だから、御調は強制的だったとか、日本側の勝手な自慢話、創作など言うことにしています。しかし、倭人伝や、日本書紀を読めば、この関係は明らかです。 古代の日本の活躍の残る、高句麗の王、広開土王の建てた碑については次回に書くことにします。卑弥呼から、100年ほどあとですが、日本の活躍が判ります。