2024/04/08(月)15:10
実資が結婚しちゃった
いえ、別に実資が結婚しても一向に構わないのですが、もう少し後の
ことだったかなと思っていたので。
ドラマなので、急に数年飛んだりはしますよね。
実資は、ドラマに出てきた婉子女王と結婚する前は、源惟正の娘と結婚
していたようです、ウィキペディアを見ると(笑)
婉子女王は、為平親王の娘で花山天皇の女御でした。
為平親王は、村上天皇と藤原安子との間の皇子で、両親から大変可愛が
られ、兄弟の中でも特別な待遇で扱われ、春宮にと思われていました。
でも、為平親王が源高明の婿に入っていた為、為平親王が天皇になると
藤原氏の権威が衰えるということで、守平親王(円融天皇)が春宮に
立てられました。
ですから、血筋から見て、実資が選ぶ相手として、とても相応しいです
ね。
この生まれなので、実資のお腹をもみもみ・・・というのはちょっと
。。。(;・∀・)
実資は、前の妻を亡くした後、37歳まで独身だったので、娘を持っている
貴族達から随分声が掛かったようです。
そして、この婉子女王のことは、別の貴族も狙っていたので、彼は実資に、
「嬉しきはいかばかりかは思ふらむ
うきは身にしむ心地こそすれ
(嬉しさはいかばかりでしょう、それに対して、失恋した私の憂さは、身
に沁みる気持ちがします)」
という和歌を送っています。
この歌は、当時秀歌として広く知られていたそうです。
大恋愛であったとも言われる実資と婉子女王ですが、2人の間に子供は生
まれませんでした。
いや、実資はそもそも子供に恵まれませんでした。
これは、道長の息子の頼通と同じ。
また、婉子女王は結婚後5年で亡くなってしまいました。
ショックだったのでしょう、その後実資は再婚の話を総て断っています。
そう言えば、婉子女王が、
「それは明日の朝、日記に書いては」
というようなことを言っていましが、当時の貴族達は朝、前日あった
出来事を日記に記したと言います。
とに角、大石静さんは徹底的に当時のことを調べ上げた上で、脚本を
書いているので、なまじっかなことは言えないわ~。
子供に恵まれなかった実資ですが、娘が一人いました。
それは正妻との間の子ではなかったのですが、名前を千古と言い、ちふる
なのか、ちこなのか、読みはわかりません。
かぐやひめと呼んで、大層可愛がり、実資が持っていた小野宮の莫大な
財産は、殆どをこの千古に上げてしまい、養子として迎えた甥である資平
には一部しか継がせなかったそうです。
あの時代だと、千古は婿を迎えて世話をしなければならなかったとは
いえ、小野宮家として、資平もそれなりのものを持っていなくては体裁
も整えられないのですから、困ったことでしょう。
実資は都にいた貴族ですが、九州で刀伊の入寇という海賊との闘いが
あった時の対応は見事でした。
その時、大宰府には、道隆の次男である隆家が長官としていたのですが、
小さい頃からやんちゃでもあった隆家は海賊との闘いをよく指導し、
これを撃退しました。
武家育ちでもないのに、状況を把握して、よく対峙出来た物ものですよね。
これを、都の貴族達は、大したこととも思わず、恩賞もろくに与える気が
ありませんでした。
それに対し、実資は外国からの襲撃を撃退したことに対し、彼らに相当の
恩賞を与えなければ、この国の為にならない、と力説し、恩賞を与えること
になったのです。
ただ、恩賞は命を懸けて日本を守った功績に対しては、かなり低いもの
だったそうです。
上位の貴族程地方に行ったことも赴任したこともないので、なにかと人ご
ととか、都は関係ない、という無責任な考え方になってしまうこともあっ
たのですね。
これでは、為政者として国民は困るのですが。
それにしても、まひろだけ切り袴、袿もいつまでも短い上、髪も結っていた
りするのは、市井を歩いたり走ったりするとは言え、奇異。
惟規の乳母であるいとですら、長い衣に長袴❓のようなのに。
髪だけは、少しずつ変えているけど。
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