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カテゴリ:雑感
アメリカの経済学者、ミルトン・フリードマンが16日死去。日経新聞はもちろん、一般紙でも大きく取り上げられていました。
学生時代に法律専攻だった私がその名を知っているくらいですから、かなり大きな存在だったのでしょう。 フリードマンが出るまではケインズの経済学説が全盛で、1960年ころまではケインズ経済学の考え方に基づいてアメリカ経済が動いていたのが、70年代以降はそれでうまくいかなくなり、フリードマンの学説がこれに代わった(ものすごく単純化して話してます)。 ものすごく乱暴にまとめると、ケインズの考え方は、政府が積極的に経済市場に介入して財政出動を行なう(おカネをばらまく)ことによって景気をよくする、というもの。フリードマンは、そんなことしても景気はよくならないから、政府は要らんことしなくてもいい、ということ。これ以上に詳しく書くと複雑になる(というか私が理解していない)ので書きません。 ただ、ケインズとフリードマン、どっちの学説が正しかったのかというと、答えはたぶん出ていない、というか、答えはないのだと思います。 ある時代背景や諸般の偶然の事情によって、あるときにはケインズの考え方のほうがうまくいき、またあるときにはフリードマンの考え方のほうがうまくいく、そういうものだと理解しています。 これは経済学に限らず、社会科学全般を通じて言えることだと思います。 法律学でも、ある条文の解釈についていろんな学説がある。 それら学説は、どれが一番正しいのかということを決めることはできなくて、それが唱えられた時代背景の中ではきっと妥当なものだったけど、時代の変化に応じてあるべき解釈が変わっていく、というものなのだと思う。 たとえば、公害や、製造物の欠陥による事故について、企業はどこまでの刑事責任を負うべきかについては、判例や学説にも時代に応じてブレがあります(刑法を学んでいる方は、過失犯に関する学説を思い出してください)。 プラトンの著作は今でも読まれますが、プラトンの国家観は奴隷の存在を前提としていた(らしい)。 どんな見解にも相応の時代背景があり、その時代背景のもとではその見解は妥当性を有しているのだということを言いたかったのです。まとまらない文章ですけどまた続くかも。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006/11/21 06:25:27 PM
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