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本日の渡月橋は記録的長雨大雨で桂川氾濫の危機で注目されています
お土産のお店の浸水が懸念されます 【高倉天皇御陵と小督の御廟】 由緒を知る為には、一箇所に留まらず、リンクして関連を広げて行きますと、史実 もよく理解出来るのではないでしょうか。 清水寺の子安の塔より山道を少し歩いて僅かの位置
嵐山渡月橋の琴きき橋と昨今の忠盛塔 からの、平の清盛と本日の関係で、訪問して来ました。
高倉天皇御陵 小督の墓は、高倉天皇御陵の東隣に眠っています。 樹の間植木に沿ってに永い石段が有ります。
国道1号線東山西口トンネル出入り口、此の側少し登った所に御陵があります。 高倉天皇は、宮中一の美人琴の名人、 婚姻が定められた【建礼門院徳子】でした。父である【平清盛】 は我が娘を差し置いて何事ぞと烈火のごとく起こり、小督を 追放しましたが、嵐山で述べましたとおり。宮中に呼び 戻されました。御歳21歳で崩去される前に遺言で 「我が墓地の側に葬って欲しい」との意志で、現代にいたるまで 東山・清閑寺山に、お二人揃って眠られています。 【清閑寺】 (せいかんじ)真言宗智山派 高倉天皇陵の隣接した位置で、少し坂を登った所に有ります。 「源平盛衰記(巻25)」「平家物語」の小督局は、宮中を追われて この寺の尼にさせられたと寺伝にあり、高倉天皇は 「私が死んだら。局の居る清閑寺に葬ってくれ」とも 記されていました。21歳にして崩御清閑寺で葬儀が為されたとのこと。 境内に【要石】があり、今でこそ新幹線で京都に来られますが、 昔は、江戸からも歩いて,近江から山科を経て、東山の峠を 越す,この位置で思わず「おお、都の灯が見えた」と感歎の声を 挙げられた事でしょう。左側に「阿弥陀が峰」(豊臣秀吉御廟) 右に「清水山」を配し、要石の位置が丁度、扇を開いた 要ともなり、眺望が息を飲み込む思いをされた事でしょう。 現代は、先に紹介しました、国道1号線トンネルを出た位置の 山中に有ります。右側の山道を辿りますと、清水寺の子安の塔 の裏門に辿り着けます。 扇塚 京の都が開けます 清閑寺の本堂。菅原道真公が彫られた本尊十一面観音菩薩 を祀られています 西郷隆盛と勤皇派の月照和尚とが蜜会された場所。梵鐘も有ります。
本日より嵯峨野巡りの初めに、京都一とも言われる嵐山周辺の 案外知られていない名所をご案内します。
【嵐山】
口が【渡月橋】を含む此処「嵐山」です。「山紫水明の景勝地」として 訪れる人々の心を遺憾なく癒してくれます。 嵐山・渡月橋 大堰川の堰き
保津川 渡月橋より上流の景色 保津川下りの船 「角倉了以」 が「保津峡」を開削、豊かな渓谷は、JR「亀岡駅」からの 「保津川下り」でも、スリル満点で、此処嵐山が「終着船着場」となっ ています。その船着場から、少し川上に、丘に登る階段が有り、少し 上ったところに中国の「周恩来総理記念詩碑」が建っていますが、 有名な【雨中嵐山】の詩の表現は、嵐山の表現を遍く伝えて下さって います 中国の要人が来日の際は、どんなに忙しい日程でも、此処を表敬訪問されます。 過っては、「温家宝首相」が訪れられました。今は冷え切っています。
周恩来の碑 「雨中嵐山」の詩が書かれています。 更に「亀山公園」を 登りますと、「角倉了以」そして「津崎村岡局」の銅像あります。 特に村岡局は、嵯峨野「直指庵の創設者」で、幕末の影の立役者 でNHK大河ドラマ「篤姫」の味方・理解者でも有りました。
角倉了以の銅像 保津川の開拓者 津崎村岡の銅像 戻って、「渡月橋」は南北に架かっています。見所はブロの写真家 が佇む、京都市内から訪れた、渡月橋の手前から嵐山を背景に、 シャツターチャンスです。そして渡月橋を南に渡った所から、川べり に降りて、堰を含めて背景に、お饅頭の様に、丸く構えている 「小倉山」 (小倉山百人一首)そのバックに「「愛宕山」が見える場所も 一服の絵に成ります。 真ん中丸い山「小倉山」
(こくうぞうぼさつ)(知恵の仏)を祀る、【法輪寺】があります。 地元での言い伝えですが、子供さんたちの「七五三」のお祝いで、 智恵を授かる為に、法輪寺で祈祷して、渡月橋を南から北へ、 「振り向かないで、渡り切ると、その子に智恵が授かる」ということで 、子供たちは真剣な様子で前を見つめて渡る姿は、とても微笑 ましいです。 「保津川」「大堰川」そして「桂川」と 嵐山の景勝を求めて、多くの観光客がお見えですが、その殆どの 方が、目にとまらないのが、渡月橋の北東詰に在る 【琴きき橋跡碑】 黒田節の二節の歌詞の情景です 女性の哀話 渡月橋の北詰に碑が建っています。 此処で源仲国が小督の琴の音を聴いたと偲ばれます。 小督寓居跡 渡月橋から直ぐの所にあります。 此処には、嵯峨野の女性哀話の一つが静かに潜んでいます。 あの有名な「黒田節」の二節に 「峰の嵐か松風か、尋ぬるひとの琴の音か、 駒引き止めて立ち寄れば、 宮中一の美人でお琴の名手であった 【小督局】 (こごうのつぼね)は、 高倉天皇の寵愛を受けていましたが、中宮であった【徳子】 (建礼門院)の父である「平清盛」は「わが娘をおいて何ごとぞ」と 烈火のごとく怒り、小督を宮中から追い出してしまいました。 高倉天皇は、愛しさのあまり部下の【源仲国】に命じて嵯峨野に 身を隠していました小督局を探しに行かせました。嵯峨野の 此処嵐山を訪れたころ、高倉天皇を恋い慕う想いを込めた 【想夫恋】の琴の激しい曲が聞えてきました。そして出会って事情を話し、宮中へ連れ戻されました。今でも「国道1号線東山トンネル」 西出口のそばにある、高倉天皇の御陵の側に天皇の遺言により 眠っています。 小督局の屋敷跡が、渡月橋の少し川上の「局茶屋」の北側に碑が 建てられています。馬を止めて琴の音を聴き入る仲国の姿が まぶたに浮かびそうです。 平家物語の一つです。 明日から嵯峨野巡りに入ります
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