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今は自動車教習所と都営住宅に変ってしまったが、大正10年頃、発足当時は電気自動車を開発し、 その後は立川に日本陸軍の戦闘機基地があったため航空機用点火プラグを開発し、終戦まで大きなシェアーを 持っていたらしい。 そんな話を市民企画講座・戦時下の立川を語る講師から話を聞いた。 立川工作所を作ったのは野沢三喜三氏(みきぞう)で東京市麹町区丸の内にあった野沢組の社長で 野沢組はイギリス車、ドイツ車の輸入販売業をしていた。 イギリス留学から帰国した野沢三喜三氏は内燃機関の開発を目指した。 一方で開発を進めていた国産初の電気自動車試作車は鉛電池を搭載したもので、一回の充電で約20Km走ったようだ。 所沢まで試走し現地で充電後、立川戻ったそうで、とても実用に耐えるものではなかった。 各地で開かれた博覧会に展示されたが、今話題のエコカー:電気自動車が大正10年代には当時の立川町で 開発が進んでいたことを聞くと驚きだ。 一方、大正14年には、社長の義弟にあたる宮田應禮がヨーロッパの留学から帰朝し、立川工作所に技師長として 入社してから、航空機用点火栓の開発に力を注いだ。 当初、開発段階ではイギリス製に及ばなかったが、昭和7年頃になって、中島飛行機との共同研究が進み、 それまで外国からの輸入に頼っていた航空機用点火プラグの国産化に初めて成功した。 立川工作所は戦争末期のころは陸軍用航空機点火プラグの総需要量の約八〇%を生産していた。 従業員には機密遵守のため転職の可能性の少ない地元出身者が多く採用され、また、給与体系については 能力主義を採用し生産性向上を目指した。 JR中央線立川駅東方のトヨタ・ドライビング・スクール脇の踏切は、立川工作所の親会社・野沢組あるいは 社長・野沢三喜三氏に因んで野沢踏切と呼ばれている。 この野沢踏切も中央線の高架工事により消える運命にある。 以上は『たちかわ市民交流大学・市民企画講座・戦時下の立川とその周辺を探る』に於いて発表された内容で、 講師:保坂一房氏:たましん歴史資料室長のご厚意により転記したものです その他参考資料として 加瀬二朗「テルコ 立川工作所と電気自動車の開発」『多摩のあゆみ』9号、1977年 山村「国産初・電気自動車の写真発見の巻」HP「トヨタ博物館ブログ」2009年 楢崎茂彌「立川陸軍飛行場と日本・アジア7自動車レースと電気自動車」HP「知の木々舎」2009年 宮田應禮〔まさのり〕「航空発動機用雲母製発火栓ノ製造ニ就テ」機械学会誌第三五巻第一八六号、昭和7年10月 〔海軍購買名簿登録願〕「公文備考 昭和8年 L 会計 契約付属」防衛省防衛研究所 があります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.07.14 17:41:17
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