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カテゴリ:詩・文芸
今年から琉球新報(文化面)で連載させてもらっている「沖縄・詩の近景」。 4月掲載分は、3月と4月の沖縄の詩の近景を書いた。 以下はその前半部分。 ・・・・・・・・・・・・ 山入端利子さんの第5詩集『ゑのち』(アローブックス)は「おもろさうし」を題材にした作品をはじめとして、花や森の生き物を含めた命への優しいまなざしが印象的。特に死者が現れる詩に顕著だ。 詩「風になれ」は、泥酔して帰宅した男に〈ここはダメよ〉と自分の墓に帰るよう促す。〈タクシー 呼ぼうか/「ノウ・サンキユー」〉というやり取りは、長年連れ添った夫婦であることをうかがわせる。死者との思いがけない再会にうれしさがにじむが、引き留めることなく導く。その迷いのなさは、かつて共に暮らし、体に染みついたリズムの表れだと思う。さまざまな感情が抑制され、ユーモアを交えて描かれる。 「台風の目の満月」で仏壇の水を飲み干す海鳥や、「ノグチゲラ」で樹から落ちてくちばしが割れても木をたたき続ける〈ヒータタカー〉のさまも印象に残る。70歳を過ぎ、豊かな時間を生きる詩人が丁寧にすくい上げた作品が並ぶ。 葛綿正一さんの詩論集『現代詩八つの研究 余白の詩学』(翰林書房)で「あしみね・えいいちと仲地裕子」が2章にわたり論じられている。仲地裕子(沖野裕美)さんの詩集『ソールランドを素足の女が』に関連し〈詩人に権利と義務があるとすれば、それは表象不可能なものを表象しようとすることであろう〉〈仲地裕子の詩は肉声ではない。むしろ仮構された声のテクストである〉と指摘しているのが興味深い。末尾に付された沖野さんから葛綿さんへの私信には詩作の背景が記されており、貴重な資料だ。 ・・・・・・・・・・・・・ 山入端さんの詩集「ゑのち」は装丁も素敵な詩集。 やっぱり「おもろさうし」に触発された作品群よりも、山入端さんの人柄がにじみ出るような身辺のことを書いた詩に惹かれる。 その身辺の平凡さから、詩の飛躍、イメージの跳躍力という点ではほかのいろいろな詩人の方々の方が見栄えがするのかもしれないので一長一短ともいえるだろうが、わたしはこんな作風もおおいに認められるべきだと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013/09/16 01:52:40 AM
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