奥多摩むかし道を歩く(その19) 奥多摩湖と湖底の故郷
ここまでやってきて、小河内ダムとダムによって生まれた小河内貯水池(通称「奥多摩湖」)(→→→こちら)も見学してみました。山あいに広がるエメラルドグリーンに輝く湖。しかし、普段からこの水を都民が飲んでいるわけではないようです。小河内ダムの完成当時、東京の水源は主に多摩川水系に依存していましたが、現在は都の水源の約20%となっています。 しかし、小河内ダムは東京都の独自水源として、利根川水系の渇水時や事故時には放流量を増やすなど、住民の安定給水の確保に重要な役割を果たしています(→→→こちら)。正面に見えるのが小河内ダムの堤体です。小河内ダム について簡単に諸元を記すと 所在地:東京都西多摩郡奥多摩町 河川:多摩川水系多摩川 目的:上水・発電 ダム型式: 重力式コンクリート 堤高:149m 堤頂長:353m 堤体積: 1676千m 流域面積:262.9km2 ( 全て直接流域 ) 湛水面積:425ha 総貯水容量:189100千m3 有効貯水容量:185400千m3 着手:1936年(昭和11年) 竣工:1957年(昭和32年) ダム湖名 奥多摩湖 (おくたまこ)我が国屈指の大ダムで、世界最大の水道専用ダムといわれることが多いそうです。「東京水道~企業の森(ネーミングライツ)」の取り組みが紹介されていました。ダムの水を生み出すためには、ダム流域の森林を育むこちが大切で、東京都水道局が企業と連携した森づくりとして水道水源林の一部の森林にネーミングライツを設定し、企業からの寄付をいただき、森づくりを行っているそうです。こちらは人間日時計というもので、この日時計の中心部を通るライン上に日付の目盛りがあり、その位置に立つと日時計のように時刻がわかるようになっています。日時計の周囲には、小河内ダム建設の歴史を記した説明板が展示されています。小河内ダム建設には長い道のりがあり、ダムに着手したのが1936年(昭和11年)で、途中戦争による中断をはさみ、完成したのは1957年(昭和32年)という21年間もの時間を要しています。「湖底の故郷」と刻まれた石碑がありました。揮毫は日本におけるスポーツ医学の草分けとなった医師であり、1959年(昭和34年)~1967年(昭和42年)の二期にわたり東京都知事を務めた東 龍太郎氏です。IOC委員を務め最初の東京オリンピック開催への功績も大きい方です。石碑の裏側には、歌手の東海林太郎さんが歌う「湖底の故郷」(作詞・島田磬也、作曲・鈴木武雄)という昭和12年に発表され、全国的に愛唱された歌が刻まれた歌碑となっています。ダム建設に伴い、東京都の小河内村、さらに山梨県丹波山村・小菅村を合わせ、945世帯6000人(小河内村は600世帯、3000人)ほどが移転を余儀なくされ、村を離れることの思いを歌にしたそうです。夕陽は赤し 身は悲し 涙は熱く 頬濡らすさらば湖底の わが村よまた、小河内ダム建設のため水没する村から三多摩地域の代替地に移住した人々のその後を描いた石川達三氏の小説「日蔭の村」(→→→こちら)をはじめいくつかの書籍もあるようですね。こちらは、ダムの洪水吐です。最大洪水量1,500m3/sを流下させることができるようです。仮面ライダーシリーズ第1作「仮面ライダー」の第1回に登場した怪人、蜘蛛男とライダーが戦った場所であり、最近公開された映画「シン・仮面ライダー」でも、人間とクモの合成した怪人のクモオーグとライダーはこの場所で戦っています。この洪水吐のゲートの上を越えてダム本体の方に向かいます。この湖底にも、人々の営みがあったという、その重みを感じて、これからは水道水を使わせていただきます。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その19) 奥多摩湖と湖底の故郷