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カテゴリ:邦画
あなたは、愛人肯定派ですか?否定派ですか??「理想の結婚・家」とは・・なんなのでしょうか。考えたい人向きです ■ あらすじ ■ネタばれ込みです 昭和から平成へ、ひとりの女が時代に翻弄されながらも理想の愛を追い求めて逞しく生きていった姿を描く女性映画。田中うめのの原作『梅一輪』をもとに、「出張」などの監督・沖島勲と佐伯俊道が脚色、ピンク映画界の大御所・渡辺護が「冷血」(84)以来二作目となる一般映画として監督した。 ■ 所見 ■ 今作は、夫婦観、男女観、さらに進んで人間関係そのものに対する《見方》が齟齬(食い違い)を来たし、そして次第に相互浸透していく様を描いていると思う。 ここで言う《見方》とは、文字通りの《見る》態度であり、視角であり、能力のことである。さくらは、健造は、2人の関係をどのように見ているのか。 さくらは(そして、その他の人物もまた)、関係とは人と人が存在するだけで成立するものだと考えている。それを担保するのが《家》であり、さくらに不幸な結婚を強いたのも家ならば、健造との新婚生活を支えるのも家である。家とは、その部屋に人が割り振られさえすれば、家族という関係を成しうる場所であり、また関係を強制する組織でもある。さくらが健造に求婚した際に、何よりも新しい家を購入したことはその表れと言えるだろう。ところが、夫健造にとっての《関係》はそれとは異なる... この対比が面白いと思う。男女の決して交わることもないテーマを、懇々と語っているように思う。 彼にとって自分を一方の項に含まない関係など、《関係》ではありえない。実に勝手なようだが、健造と誰かとの関係のみが《関係》なのである。健造とさくら、健造と洋子(武田久美子)、健造と弟・勇造(倉崎青児)・・・さくらとの新居に愛人である洋子を平然と住まわせることが出来るのも、結婚した洋子と勇造の家に侵入することが出来るのも、こうした見方の帰結と言える。 健造には、他人と他人の関係―――それがたとえ、自分の知っている人物の間の関係であってもそれを実感する意志もなければ、そもそも能力もない。そして、その不能ゆえに彼はさくらたちが依拠する《家》に対する批判者となる。 妻の立場から愛人洋子の家からの排斥を訴えるさくらに対して、健造は冷淡である。さくらとの関係によって、洋子との関係を変化させなければならない根拠などどこにもないと思う。もっとはっきりといえば、洋子との関係の方が時系列的には先行しているのであり、 さくらこそが邪魔者であるとさえ言える。愛人の見方が変わると思う。 洋子(武田久美子)と弟・勇造(倉崎青児)の関係も同様であり、健造と洋子が逢引している間、家から追い出された状態でいる勇造(弟)と、偶然そこに通りかかったもう一人の邪魔者・さくらとが出会う場面は、寒々とした感触を残す名場面に違いないはず・・ 夫の愛人が、嫁に行ったにもかかわらず、やはり関係が続いている、しかしさくらはここでは実際に2人を見てない。見に行くことすらできなかったのか・・涙は見せるが悔しさをこらえて割り切って帰宅したのかも・・ 健造が繰り返す「小さな幸せが大嫌いだ」という言葉!重要な発言。 現代こうした《家》の原理から逃れようという意志を持つ人は増加し、この映画の時代との温度差も少ないであろう・・ 無論、愛人を持つ旦那様方がこれを観ると、感慨深いものを感じ取れるので、おすすめです!(笑) さくらと洋子を平然と同居させる健造の一見冷淡な態度も、彼女たちが等価であるからであろう。女である私がすべて理解しうるのは、無理がある。 建造は、自分を中心として、対となる他者の配置を確定、固定化し、システムを完成させ、同時に基準となる対関係の特権性を消す 。これを、独善的ととるか、魅力ととるかは、観客個々に委ねたいものです。 次にクライマックス__母との関係の喪失は、健造の内部システムに一種の恐慌をもたらす。役所さんの演技力が見ものだ。 これ以降の建造は、他の関係を支える位置にあった母との関係が消え去り、さくらたちの{一般的な関係のシステムへの移行}に恐れをなしたのか、生きる意味を失っていくが、ここからは秘密としちゃいたい。私は実に美しいラストでまとまったと思ったから、言葉にはできない、したくない、観るひとによって、違ったとり方をして欲しいが、日本人らしさが出てるまとめかただったな、生まれたときから悲劇を背負った男の性をあらわにするシーンって好きだなぁ。。。 何かが始まるこの季節柄、夜中一人でこっそりみたら、違った発見があるはず。では・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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