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当社の社長として、平成11年11月より努めてきましたが、もうすでに75歳を超えましたので、社長を退任して、娘にその職を継いでもらうことにしました。社長在任はほぼ24年間になりました。 当社は昭和9年に祖父が、当時の上水内郡七二会村立の尋常小学校の校舎を建築させていただいた事を創業としています。この年の12月25日に当校舎の建前が実施されました。この工事の竣工式が翌年3月に行われましたが、その時村長さんからいただいた感謝状と記念品としての銀盃(大中小)は、我家の家宝となっています。戦時中は、長男の父親は入隊をして当時の満州に動員されていましたので、この期間は営業を続けていなかったようです。戦後の極端なインフレによって祖父は契約にしばられて、相当な苦労をしたようです。現在の、H土建さん、F建設工業さんと合併となり、その会社の常務取締役となっていたそうです。戦後すぐに、父が帰還して多少元気が出たようで、また独立して、上水内郡内の建築・土木の公共工事を請負っていました。 昭和34年、私が小学校5年生の時祖父が他界すると、今度は父親が社長を努めて、小川村内他、長野市内の方々に社員として務めていただき社業を継続・進展してきました。私の子供の頃の西後町、小学校時代の中御所4丁目、高校生の頃の岡田町、そして現在の安茂里地区に本社をその都度構えました。私が入社をしたのは昭和48年で、1年間の日デ工業(現UDトラックス)勤務をした後のことです。家内は東京日暮里の人で、私は結婚とともに地元に帰りました。都会育ちの妻を信州に連れて来たので、彼女には頭が一生あがりません。そんな彼女には、都会を離れるという、辛い想いをさせてしまいました ![]() 建設業で一環して考えてきたことは、社員さんからの協力と信頼を得ることに苦心してきたことです。また、社長に就任した頃は政治、経済的にも逆風の頃でそれまでのバブル景気が一転、デフレと仕事不足に悩まされた時代ばかりが続きました。多少落ち着いてきたのは、この一、二年のことでした。 直系の三代目社長として、社員さん、お客様、協力会社の支援、ご指導をいただいて、ここまできました。会長になりましたが、急に別の道も思い当たりませんので、娘社長のバックアップと、社会貢献ができればなと思っています。24年間の感謝の連続でした。 ![]()
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2023年10月20日 13時32分07秒
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