政治家の本音的発言
イラクで邦人人質が解放された直後に私は日本に着いた。週刊誌やワイドショーでは、事件自身よりも人質や人質家族に関する報道とどうも、それまで吹き荒れていたらしい「非難の嵐」に関する報道でもちきりだった。ある朝、ホテルでパンをかじりながらテレビを見ていた時画面に、小泉首相が映った。ワイドショーの取材だったと思う。記者会見ではなく個人的な取材を受ける小泉首相を「動画」で見るのは初めてだった。手結川家は未だに「亀の子ネット」環境なのでネットの動画は「紙芝居」になってしまうのだ。「おぉっ、コイズミじゃん?」と瞬時に注目した。***【注】***一国の首相を「コイズミ」と呼び捨てる事に不快感を持たれる読者様もいらっしゃると思いますがこれは、私が政治家を脳裏で認識する際には決して敬称をつけない、という個人的習慣を忠実に表現したものであります(^^)。*********質問の内容は、こんな感じだった。「今回救出された○○氏は、また、イラクに行きたいと表明しているそうですが、どうお考えですか?」答えはこんな感じだった。「う~ん、これだけ多くの人が、寝る時間も割いて救出に力を尽くしたのを知っていてそういうというのは....(う~ん)」首をひねるジェスチャーや表情から「呆れの混じった不快」という印象を個人的には受けた。驚いた。何故、驚いたのか?それは、この答えが「本音的発言」だったからだ。質問者が「~そうですが」と聞いているのだから「はっきり確認する前には何とも言えない」と答える事もできたのだ。だが、彼は、敢えて、不満を表明した。首相の回答というより街頭でいきなりマイクをつきつけられて答えている一般市民の回答だった。「本音と建前(タテマエ)」は、よく語られる対比だ。「建前」は、別に、日本の専売特許ではない。成熟した文化には存在するものだ。「建前」ではなく「原理・原則」といった形での存在が多いかもしれない。あくまでも個人的な印象なのだが、日本以外の私が比較的よく知っている国(西欧数ヶ国、中国など)では「原則」が尊重されている事をかなり強く感じるのだが日本(というより、私が知る限りの現代の日本)に関しては、同様の「原則」が明確に見えにくい事が多く日本の「原則」は「建前」と呼んだ方が自然なのではないかと常々考えている。さて、「本音と建前」の対比では、「建前」は、批判的な目を向けられる傾向が強い。「本音」=実行力「建前」=口先だけというのは、代表的な対比の一つだ。しかし、実は、「原則」を持たない文化では「建前」は「原則」の代替としての機能も果たしているのだ。「原則」とは、一文化において「人の、社会の、こうあるべき正しい道」を示したものだ。ただ、一個人は精神的に弱い存在でこれが正しい道、と、わかってはいてもそれが辛い道であれば弱音をはきたくなる。それが「本音」だ。そして、その「本音」を出した後で周囲から、正のエネルギーを得てまた「原則=正しい道」に戻っていく事ができる。それが、本音と原則の関係であり、本音と建前の関係でもある。だから、本音というのは、あくまでも影の場で心の底から信頼できる相手との間とでしか交わされない言葉だ。「本音まがい」のユーモアを含んだ軽い受け答えもある。これは、本音をにじませている事もあるが本音とは全く無関係の事もあり「本音」とは区別して判断する必要がある。一方、「本音的発言」特に公の場で発言される「似非(エセ)本音」これは、本音とは全く違う。あたかも「本音」の様な外見を装っているがもっと野心的な、ある意味、危険性を含んだものだ。何故なら、この「本音的発言」には、「原則」を、この本音の方向に変えようとする故意的な力が働いているからなのだ。一国(一政府)の「原則」が「人の道義」からはずれている時は、この様な「本音的発言」が国を越えた社会での「本来の原則」であり近代の歴史においてはこの様な本音的発言が革命の発端となった事も少なくなかっただろう。つまり、本音的発言の性格は、本音と対比させられている建前や原則の性格による。対比させられている建前が正であったら本音的発言は負なのだ。ある程度以上の力を持ちメディアにも慣れた政治家が公の場で「本音」を出す事は無い。政治家の公の場での「本音」は、全て「一般市民に受け入れられるレベル」を考慮した上で発言される。それが「暴言」となる時は政治家が、その受け入れられるレベルの判断を誤ったか、あるいは(↓この可能性の方が遥かに高いが)一般市民の「受容レベル」を探っていたり暴言に対する報道によって却って「暴言」への注目度を集め一般市民の考え方に影響力を与えようとしているのだ。政治家の「本音的発言」は、暴言並みのショックを与えない事によって一般市民に明らかに気付かれない方法で静かに一般市民の考え方に影響力を浸透させる...そんな危険性を含んでいる。日本は民主主義・自由国家である。これは、日本の建前・原則だ。この建前によれば上記の質問を記者から受けた時の首相の答えは....「イラクへの渡航は現在非常に危険だが、渡航するか否かは、あくまでも本人の自由意志による。」...と言う様な内容になったはずだと思う。だが、首相は敢えて、本音を話している様な表情(と私には受け取られた表情)で批判を表明したのだ。これは「一般市民感情」が人質救出に成功した政府に肯定的に人質及び家族に否定的にかたむいている事を熟知しつつその流れを強める意識を持った発言だった。この発言を聞いた時、私は、人質や人質の家族への一連のバッシングは政府主導であったのかもしれない..?少なくとも政府が何らかの力を加えていたのでは...?...との疑惑を抱かざるを得なかった.....。そして、ちょっと傲慢に聞こえるのを承知で正直に言ってしまえば、日本の将来を案じる一市民としてなんとも、いや~な予感がしたのである....。***ちなみに、私の、この日記これも一種の「本音的発言」です。政治家ではなく、「一市民」「一主婦」、「一【日本人児童を育てる】母」の発言ですが(^^;)。