ヒジャブ・イスラム・イスラエル..(1)
朝、次男が突然「ママ、コアラさん、ほしい。」と言った。「赤ちゃん・猫に続いて今度はコアラかよ~?」と思いながら話を聞くと、クロワッサンの事だった....。「コアラさんのパン」と思いこんでいたようだ....。さて、実は、この日記を更新していない間、前回「続き」のままで放ったらかし状態になっている「多言語育児」をふっとばして、ず~っと欧州でのヒジャブ(イスラム教の頭巾=ヘッドスカーフ)騒動と宗教戒律、イスラム教、イスラエル問題等々について考えていた。まだイスラム教やイスラエルについての理解も初歩の初歩で(何か誤解やが間違いがありましたらご指摘お願い申し上げます。)このヒジャブ騒動に関しても、どう解釈したら良いのか、自分自身の考え自体もまとまっていないのだが、とりあえず書く事によって、少し頭のファイル整理をしたい。欧州では昨年から、宗教のシンボルと公立機関(特に学校)との分立に関する問題が巷を騒がせていた。(少なくとも、英国の新聞では、よく取り上げられていた。)フランスではヒジャブを着用する女学生が退学処分となり、イタリアでは、イスラム教に改宗した親が子供の学校の教室から、十字架を取り外す様に訴えを起こし、また、ドイツではヒジャブを着用する女教師の公立学校(?)への就職を認めるかどうかで、それぞれ大きな議論が起きた。フランスでは、イスラム教の女学生を中心とする抗議デモも起きたがついに2月10日、公立の学校で、宗教色の強いシンボル・服飾等々の着用を一切禁止とする案が可決された。問題となったのは、もちろんヒジャブだけではない。フランスの公立学校は、もともと教室から、キリスト教のシンボルである十字架をも排除している。教育そして公の機関と宗教は、一切、切り離されるべきである、というのが、フランスのある意味宗教的な「哲学」なのだ。この点は、一般的英国人や英国政府の宗教への対応と全然違う。英国の公立学校は、殆どが、多宗教容認だ。しかも、哲学的なアプローチというよりも、「宗教が多いとお祭りも多くて面白いじゃ~ん?」という様なもっと軽いノリさえも感じる。もっとも英国国教会(Church of England)という宗教自体が何の落ち度も無い女王と離婚して愛人と結婚したいという国王によって作られたものなのだから、そもそも、宗教に対する考え方自身がバリバリのカソリックとプロテスタントと、その他色々な宗派の抗争が激しく行われ続けた大陸欧州とは若干違うのかもしれない。だが、実際には、英国でも、英国国教会が成立した後に、カソリックの巻き返しがあり宗教を要因とする虐殺が起き、それを、エリザベス女王がまた、英国国教でまとめて、何とか落ち着いた...(以上、非常に単純化しています^^;)という血みどろの歴史もあるし、現に、北アイルランドではいまだに、カソリックかプロテスタントで命にかかわる抗争が続いているのだ。私が英国人に感じる宗教へのリラックスした態度は宗教紛争を経験した民衆が自然に(?)身に付けた「他人の宗教には手も口も出すな」という「生活の智恵」を伝統的に「八方美人」的要素が非常に強い英国政府も取り上げ、国民的見解として、まとまったのかもしれないと思う。また、英国人にとっては、「大英帝国」という概念の方が宗教を遥かに凌いで優先された時代もあったし、今でも、それを感じる事が少なくない。ともかく、イギリスの公立学校ではどの宗教も、どの文化も「尊重」されている。校舎に十字架のある所もあるし無い所もあるし、生徒は、ヒジャブだろうがターバンだろうがパンクだろうが、基本的に制服を着ていれば他は何でも可だし、以前、日記にも書いたが、クリスマス・コンサート(日本の学芸会の様なもの)ではキリスト生誕劇と同時に、ヒンズー教やユダヤ教のお祭りも一緒にしてしまったりする。しかし、宗教が、これほど容認されている反面、実際にはヒジャブを着用するイスラム教女生徒の数は少ない。また、街を見渡しても、全く、頭を覆わないか、髪や耳を完全に覆うヒジャブではなく、ただ単に頭に載せた様な髪の見えるスカーフを着用しているイスラム教一般女性市民の方が断然多い印象を受ける。確かフランスの学校でも、この様な髪の見えるスカーフの着用は許可されているはずだ。今回のフランスの決議は、ヒジャブだけに対するものではない。だが、事実上、もっとも打撃を受けているのはヒジャブを着用するイスラム教女生徒だ。耳と髪を見せる・見せないかで、就学できるかできないかという、女生徒の一生に拘わる問題が決定されてしまうのだ。しかも、フランスには500万人以上のイスラム教信者がいる。(同様に禁止されたシーク教のターバンは、数が少ない為かロンドンでは、フランス政府に対するシーク教徒による抗議デモが起きたものの、フランス国内ではさほど問題視されていない様だ。)一体、このヒジャブ騒動で、どれだけのイスラム教信者の少女が、宗教と教育の選択を迫られる事となるのだろう?そして、何故、そこまで、ヒジャブが問題視されるのだろうか。そもそも、イスラム教には、「つつましやかな服装を心がけ、男性親族以外には外見・肉体の美を強調しない」という戒律はあっても、「こういう服装でなきゃダメ」という細かい掟は無いそうだ。ただ、コーランには、思春期を迎えた女性が肉体を露出する事を適当でないとし唯一露出して良い場所として、掌と顔を予言者が指差したという箇所があり、これが、顔は出すが、髪と耳は覆うヒジャブに発展したらしい。そして、ブルカと呼ばれる様な、頭からすっぽり被り顔さえも隠してしまう(或いは目だけ見える様にする)ベールに関する規定はコーランの中には無く、顔を隠すベールは、そもそも、他人から家を覗かれない様(プライバシーを守る為)に家に取り付けたカーテンと同じ発想によるもの、つまり、ブルカを着用している女性は、歩きながらも、自分の家にいるのと同様のプライバシーを保てるといういわば「歩くカーテン・歩く要塞?」の様な存在らしいのだ。では、何故、ヒジャブを着用する女生徒は、教育を受ける機会を逃す事になっても敢えてヒジャブにこだわるか?西洋社会では、これを親やコミュニティからの精神的圧迫によるものだ、と解釈する人が多いのではないかと思う。私もそう考えていた。だが、何冊か、イスラム教関係の本を読んだ後に考えが変わった。ヒジャブを着用する少女には欧州生まれ欧州育ちが少なくない。彼女達は、強い人権意識を持ち、生まれによる慣習ではなく自分の意志でイスラム教を選択しておりヒジャブを、親でもコミュニティでもなく絶対唯一の神への忠誠としてまとっているのではないだろうか。彼女達の世界にあるのは「神と我」なのだ。これは、キリスト教にせよ、ユダヤ教にせよ一神教の宗教に共通する哲学だと思う。(ちなみにイスラム教では、キリスト教とユダヤ教はイスラム教と源を同じくすると明言されているし、その為、イスラム教徒の男性は、キリスト教とユダヤ教の女性をイスラム教へ改宗させる事無しに娶る事ができる。)また、多神教の国でも、この様な、「絶対唯一の存在と我」という意識はあるのではないかと思う。例えば、日本や中国では、神や仏をも超える絶対的な存在として「天」があるのではないか?しかし、この「神と我」という意識は、キリスト教信者にとっても大変なじみ深いものであるにも拘わらず、イスラム教について深く知らず、イスラム教とアラブ諸国や他地域のイスラム教国の「慣習」をごっちゃまぜにした西洋人は、このヒジャブを「反フェミニズム的」「反自由思想的」「封建主義的」「時代錯誤的」...と誤解しているのではないだろうか。同時に、残念な事だが、アラブ系住民やイスラム教に対する恐怖心や偏見もあると思う。アラブ・イスラム教といったら、まっさきにテロが連想される社会に私達は強引に住まわされているからだ。だが、そもそも戦争(テロ)をしかけて来たのは、アラブ諸国でも、イスラム教徒でもない。むしろ、イスラム教徒は、売られた喧嘩を買っている、というか、やり返さないと、全滅させられるおそれがあるからやるしかない、という状況に陥っているのだと私は思う。例えば、昨今のイスラエルでは、パレスチナ難民による自爆テロが騒がれるばかりだがそれ以前には、Zionist(ユダヤ人イスラエル復帰民族運動家)が派手にテロ活動を行っていた事は決して忘れられない。また、そのテロ活動に従事していた「テロリスト」達が現イスラエル政権の中枢に含まれている事も....。欧州での迫害を逃れ命からがらパレスチナに移住しZionistに言い含まれ、既にそこで生活をしていたパレスチナ人の家に勝手に住み付き、家を盗み、土地を盗み、最終的には生きる望みを剥奪し、必然的にテロリストを生んでおきながら今度は、危険だからといって、美しい土地に醜い壁をぶったてる....そんな一般市民の常識では理解も同情もできない事を当然の行為だと思い込まされ、こんな運命をたどるしかないイスラエルの一般市民の事を考えると胸が痛む。一方、そもそもイスラエルが生まれる原因を作ったアメリカと欧州諸国は、ユダヤ人やアラブ人の犠牲や苦悩を対岸の火事として遠巻きに眺め「どっちにしても、俺等の仲間じゃないから..」と歴史を学ぶ事もなく、偏見に満ちた差別感を助長させ、実際に差別行為に及びながら、自分の利益になる方へ日和見的になびいているのではないだろうか。(続き)