おとっつぁんの誕生日
時差があるので日本では24日になっているが、23日は父の誕生日だった。遠くにいると、なかなか何かを買って送るというようなことがしにくいせいもあり、最近ではもっぱらインターネットでカードを送ることが主体になってしまい、帰省の時に何かを買うことになる。昨夜、ご飯も食べてお風呂もはいって、テレビの映画も見て、深夜1時頃、寝る前に実家に電話した。ちゃと「おとっつぁん、いる?」おかん「ちょっと待って。今日は予定がないし寝てはるわ。」***おとっつぁん、しばしの間の後、登場。***ちゃと「たんじょうび、おめでと~~~。今後ますます壮健であらせられますよう。」おとん「はいはい、どうも。それがな、一つ考えてることがあるねん。」ちゃと「なになに?」おとん「せっかく誕生日が来たさかい、ちょっと名前でも変えよか、思うねん。」ちゃと「ええ?それ何?なんて変えるん?」おとん「紙屋川実仁(かみやがわ・さねひと)や。」***ちゃと、爆笑。***先日から日本のワイドショーを賑わせているらしい、有栖川識仁なる宮家を語る詐欺師の話がよっぽど気に入ったらしく、本人はこれからそれで行きたいらしい。この「紙屋川」というのがまた笑わせるシロモノで、うちの実家の近所にあるヒンソな(川をヒンソというかどうかは知らないが)川なのだ。小さい頃、誰でもみんな一度は親の逆鱗に触れて「アンタはうちの子ちゃう、○○川からひろてきた子や!」と言われた覚えがあるはずだ。(え、ないっすか、みなさん?)だから、私だけではなく、弟も近所の子供もみんなうちの近所の子は「紙屋川」から拾われてきたことになっている。父は大正15年生まれで、今となると筋金入りの老人といったところだ。私もそれなりに年は食っているが、父にも母にも遅い子だったことには間違いない。この父に最後におシリむき出しでしばかれたのは小学校4年だったと思う。父は実の母(つまり私の祖母だが)に5歳で死別し、私にとって大祖母さんになる人と祖父に育てられ、長男だったために学校の教師になる夢をあきらめて西陣織の職人になった。私はどうも父の義理人情の部分を大きく受け継いでしまったところがあり、父と決定的に断絶したような時期はまったくなかった。父は60年以上も趣味で謡曲を続け、家での仕事はそこそこ。それが、がんばり屋の母にはガマンできないこともあったが、私にとっては望みうる最高の父だったと思う。もう15年も前に膠原病を患い、今だに完治はしていないながらも病気と体の折り合いがうまくついていて一応は元気にしているが、今年帰った時には足腰がちょっと弱っているのが気になった。父はいつも忙しく、私たちが帰省していても「悪いなぁ、出かけるわ。」と言って出かけるのだが、社交ダンス・カラオケ・俳句・それから無料で近所の老人グループに謡曲を教えたり、近所の小学校の社会学習で西陣織の歴史の授業の臨時講師に借り出されたりで「体がいくつあっても足らん」らしい。こんな離れたところで暮らしていると、いつも顔をみることはできないが、毎日の生活の中で何かにつきあたるたびに「おとうさんやったら、こうするやろな。」と思って選択をすることが今もよくあるし、実際、声を聞きがてら電話であれこれ持ちかけると「年寄りにそんな難しいこと、きくな!」と苦笑混じりに一喝されることもある。父は、気の強い私にこんなことをよく言っていた。「ええか、ちゃと。『窮鼠、猫を噛む』言うてな、追い詰められた相手は最後はどんな反撃に出るかわからんのや。そやさかい、どんな相手に対しても必ず一部は逃げ場を残しといてやれよ。」おとっつぁん、ちゃとはちゃんとその教えを守ってまっせ。こうなったら、90歳くらいになったら「紙屋川実仁」の卒寿のパーティでも盛大にやって金集めでもしよか。(爆)