達磨大師の「無功徳」
2月4日(日)~10日(土)までの坐禅回数(〇は結跏趺坐、他は半跏舗座)4日 ①+1+② 5日 ①+① 6日 ②+① 7日 ①+①+① 8日②+①+1 9日②+①+① 10日 ②+②+①+①1回が15分程度(数息観で1回で1~100まで数える)なので、長くても都合1時間半程度ではある。私は仏教布教のために尽してきた、どれほどの功徳があろうか?の武帝の問に「無功徳」と答えたのは、達磨大師である。それにならえば、坐禅して何の役に立つか?何の役にも立たない、ただ今、ここに坐るだけである ということになろうか。達磨(ダルマ)大師の教え 「無功徳」とは?ダルマは「達磨」。あるいは古くは「達摩」と漢字で表記され、今から約1500年前の方であり、示寂したのは諸説あるが、西暦532年(宇井伯寿説)、150歳であったと伝えられている。 達磨大師は、出生は南インドの香至王国の第3王子で、後に中国に渡り、禅の教えを初めて広められたことにより、「禅宗初祖」として尊仰(そんごう)されている。 その達磨大師が若き王子の頃、仏道に入ることになったのはこういう機縁があった。 ある日、お釈迦様の仏法を継承した第27代目の祖師である「般若多羅(はんにゃたら)尊者」が香至王(こうしおう)のもとを訪れた際、国王は光輝く宝珠を与えた。 その時、尊者は3人の王子に「この宝珠にまさるものは、この世にあるだろうか?」と問うと、兄の王子達は「これ(宝珠)にまさるものはない!!」と答えた。 しかし、第3王子は「物である宝珠より、仏陀(ブッダ)の智慧の方がはるかに勝る」と答えた。 それを聞いた尊者はその王子を弟子として受け入れ、やがて第28代目の祖として「菩提達磨(ぼだいだるま)」(ボーディダンマ)という名を授けた。 その後、般若多羅尊者が亡くなられるまで側につかえ、師の亡きあと、60歳の頃に中国に「仏法」を伝えんが為に渡ることを決意した。その達磨大師の伝えた仏法は、尊者より受(う)け嗣(つ)いだ「禅の教え」であった。 あの「起き上がり小法師」のダルマさん。七転び八起きのダルマさんは、実は「坐禅」の姿と心を具象化したものである。 脚を組み、両手を組んでの姿、「坐禅」をしている姿であり、転んでも起き上がるというのは何事にも動じない「不動」なる「坐禅の心」そのものである。 その達磨大師が、インドから初めて中国の地を踏んだ時、師の名声を聞き及び、当時、南中国の国主であった「梁(りょう)の武帝(ぶてい)」という王が、是非にも会いたいと切望した。 武帝(ぶてい)は、多くの堂塔伽藍(がらん)を造立し、あるいは沢山の僧侶を庇護しては篤く仏教に帰依していた。 武帝は会うと達磨にこのことを話し「私にはどれほどの功徳が有るのだろうか?」と問うた。 「帝(てい)問(と)うて曰(いわ)く、朕(ちん)、即位(そくい)して已来(いらい)。寺を造り、経を写し、僧を度(ど)すこと、あげて記(き)す可(べ)からず。(数えきれないほど)何(なん)の功徳(くどく)有(あ)りや!!」「師(し)曰(いわ)く 無功徳(むくどく)!!」 功徳なんか有りません!!無功徳なりと、武帝の問いを喝破した。 国主の武帝は自分は、大いなる功徳が有ると思っていたので驚いた。—しかし— この「無功徳」の達磨大師の答えは、実はただ単に厳しく言い放ったものではなく、もっと実に深遠なる「禅の教え」である。 達磨大師は武帝の心を、しっかりと受け止め、真(まこと)の「功徳」のあり方を教えた。 仏教の帰依とは、功徳を求めるものではなく、まして見返りを望むものではない。「帰依」というその心と行い自身に、すでに「功徳」は、そなわっている。そこに「有る」とか「無い」とかに、執着してはならない。 それは、経を写し、読むことも、また坐禅に作務、托鉢にしても全ての仏道修行には、功徳は、そのままにそなわっている。だから、そこに功徳を求め、有る無しとしてはならない。 達磨大師は、その「有るか無いか」との、こだわった武帝の心を喝破し、その執着心を戒めた。 「無功徳」の「無」は「有無相対」の価値観の心、あるいは「有る」と心が動き、「無し」とも心が動く、その揺れ動く心を否定した「動ずること」のない「不動の功徳」ともいえる。 「無功徳」とは、有無相対を超越した「絶対無」であって、「無なる功徳」あるいは「無の功徳あり」と解釈できる。 まさしく、達磨大師の「坐禅の姿」であり不動なる「坐禅の心」である。—ひるがえって— 冒頭の達磨大師が、若き王子の頃、般若多羅尊者との初想見の時、「この宝珠にまさるものはあるだろうか」に、王子の「物の宝珠より、仏陀の智慧がまさる」との答えた。 達磨大師は宝珠という物のあり方に執われず「仏陀の教え」そのものを尊いとしている。 達磨大師は若き時代より、それは確固としてあった。 その昇華した言葉が「無功徳」という「喝(かつ)」であると私は思う。 私は今、あらためて、この「さわやか説法」を書きながら達磨大師の説かれている「心」を学んだ。—かく考えるならば— 私、高山和尚なんぞは、真っ先に達磨大師からお叱りを受けるであろう。「お前ぐらい、功徳を求める者はいない!!」「あっちや、こっちと求めてばかりいる!!」「しっかりと不動なる心を見据えよ」と…。 しかしながら、私は、達磨大師の教えも分からず、「ダルマさん」を棚に飾っているだけなのだ。 それゆえなのであろう。いつも私は「七転八起(しちてんはっき)」ではなくして、「七転八倒(しちてんばっとう)」の中で悶え転げ回っている。二宮先生語録巻の3 【247】【二四七】達だる磨まの悟ご道どう、至いたると謂いふべし。其その像ざう或あるひは七しち堂どう伽が藍らんに坐ざし、或あるひは小せう児じの弄もてあそぶ所ところと為なる。仏ぶつ経きやうの如ごときは、則すなはち片へん紙しと雖いへども人ひと之これを汙けがすを恐おそる。不ふ倒たう翁おう(だるま)の如ごときは、則すなはち之これを弄もてあそび、之これを踏ふみ、之これを破やぶり、之これに溺いばり(小便)す。人ひとも亦また之これを怪あやしまず。是これ悟ご道どうの至いたり、無む心しんの極きよく。以もつて之これを致いたすなり。《訳》達磨の悟道は至っていると言うべきじゃ。その像はあるいは七堂伽藍に坐し、あるいは子どものおもちゃとなる。お経のようなものは、少しでも人は汚すことを恐れる。ダルマのごときはこれをもてあそんだり、踏んだり、破ったり、水につけても、誰もこれをあやしまない。これは悟道の至り、無心の極で、達磨の悟道は至っているというわけじゃ。1『報徳秘稿』一五八「一休の歌に、坐禅する祖師の姿に加茂川にころびながるる瓜か茄子(なすび)かとあり。是そしるに似てもむる也。夫れ、瓜・茄子とを川へ流す時は、石に当りても、又岸に当りても、淵といえども、終に沈む事なきを云う也。」どおれ、もう一度坐ろう(^^)