のっぽ と ふとっちょ の バディ と 癒しキャラ藤丸さんの運命やいかに
らんまんの 波多野 と 藤丸 のコンビが楽しい優秀な波多野 と どじで心優しい藤丸 朝ドラ史上の名コンビに思えるのっぽ と 太っちょ の掛け合い漫才みたいなコンビはアボットとコステロ(1940年代から50年代に活躍したアメリカのお笑いコンビ)スターウォーズのC3POとR2D2を思い出させる。日本でも 弥次喜多道中 や ムックとガチャピンは同じイメージか演出者はきっと C3POとR2D2 や 弥次喜多 のイメージから俳優を抜擢したのかも。波多野役の前原滉 と 藤丸役の前原瑞樹 の“W前原”はどちらも素敵#らんまん観察日記 特別編【もうひとつのバディ】らんまんで 少し心配なのは 癒しキャラの藤丸の動向藤丸「こんなに執念深い人が世界にひしめいていて、運が悪かったで済まされて。研究って、それに立ち向かうことですか」「誰が発表したって、花は花じゃないですか」「ここ(植物学教室)だって世界の最前線じゃないですか」「別に、そんな争いしたくないっていうか」「どんなに研究したって、明日すべてが無駄になるかもしれない。そんなの、心がもつんですか」。大窪「やられたらやり返すしかねぇだろ」徳永「やるんだよ、それでも。ここはそういう場所だ。一人一人が自分と闘う戰場なんだ。他人がどれだけ成果を出そうが、心を揺らさず、自分の研究をするしかあるまい」SNS「朝ドラのスタイルを崩さずに、アカデミアの闇を表現するの、凄いな。藤丸と田邊教授、それぞれの傷ついた様子を佇まいで見せる」💛ドラマでは「白い巨塔」など支配権を廻っての闇が描かれてきたがらんまんでは 石版印刷 や 新種発表の過程 を克明に描いたように対話劇を通じて 新種発表の現実を克明に描きだす、それにしても万太郎の「わしが名付け親になる」を生涯貫きとおす生き様それよりもなお、それを支え続ける妻の生き方が「尊い」予告によると、そんな田邊に指導を受ける藤丸にも変化が。新種発表を巡って学者たちが激しくやりあう状況に、うさぎが大好きな心優しい藤丸は耐えられず、万太郎の家を訪ね「大学をやめる」と言い出す…。悩む藤丸に「理由かき集めているくらいなら絶対後悔する!」と喝を入れるゆう、万太郎「弱さも、よう知ったら強みになる」寿恵子に見送られ、万太郎と藤丸は、植物採集の旅へと出かける。波多野泰久 と 藤丸次郎 の 東大生二人のモデルは市川延次郎 と 染谷徳五郎 とされる。波多野 泰久(はたの やすひさ)演:前原 滉(まえはら こう)藤丸次郎(ふじまる・じろう)演・前原瑞樹(まえはら・みずき)波多野東京大学 植物学科 2年生。極度の近視でメガネをかけています。同級生の藤丸次郎と一緒に登場することが多いです。牧野万太郎が東京大学に来て最初に親しくなった人物の一人。後に、牧野万太郎、藤丸次郎とともに植物学雑誌を作る。富太郎とともに、植物雑誌発行を支えた二人の仲間では、藤丸次郎のモデルが、市川(田中)延次郎。ただし、藤丸のモデルはもう一人いる。藤井健次郎。市川と藤井が加味されて、藤丸次郎となっていると思われる とする。波多野 泰久のモデルは染谷徳五郎。波多野のもう一人のモデルが池野成一郎 とする。二人は牧野富太郎と一緒に植物学雑誌を作った選科生。選科生は東大に通う学生の一種。すべての科目を習うのが本科生に対して、一部の科目だけを習うのが選科生です。選科を卒業しても「学士号」はもらえません。そのため本科生よりも低く見られていますが。そのぶん入学の条件がゆるく設定(本科は旧制高等学校卒業、選科生は旧制中学校卒業の学力が必要)されています。編入試験に合格すれば本科に編入は可能です。牧野富太郎が東京大学植物学教室に出入りできるようになったとき。植物学科の選科生に染谷徳五郎(そめや とくごろう)と田中延次郎(たなか のぶじろう)がいました。二人は牧野の下宿先にも遊びに行く仲でした。3人で何度もすき焼きを食べている。明治20年(1887年)日本初の植物の学術雑誌「植物学雑誌」が発行されました。最初の「植物学雑誌」では染谷徳五郎は「植物と蝶の関係」の記事を担当しました。染谷徳五郎は東大を出た後は東京高等女学校の教師になった。田中延次郎 江戸・千住南組の酒問屋の長男に生まれた。東京帝国大学理科大学植物学科を1889年に卒業。高等菌類、植物寄生菌など、広い分野に関心を持った。在学中に『植物学雑誌』の発行を提唱し、自らもハツタケなどキノコの2新種の記載論文を発表し、日本人による菌類の新種の初記載論文とされ、イギリスの雑誌に転載された。後に田中の与えた学名、Lactarius hatsudake はイギリスのマイルズ・ジョセフ・バークリーによって命名された種、Lactarius lividatusのシノニムとなった。1889年に、田中長嶺と共著で『日本菌類図説』を出版した。「変形菌」の名前を使った日本最初の論文も発表した。1892年から名古屋の愛知県桑樹萎縮病試験委員などを務め植物病理学の分野で働いた。1897年から一年間、ドイツのミュンヘン大学に私費留学し、酵母の研究などもした。1898年から1899年まで東京帝国大学理科大学の講師を務める。1903年、桑樹萎縮病調査会が廃止された後、適当な就職口もなく、妻も亡くし、精神病を患い、精神病院で没した。田中が、江戸・千住南組の酒問屋の長男に生まれた ことかららんまん 藤丸実家が万太郎実家の酒蔵と同様なことから 藤丸と比定されているが不明モデルを純化したのではなく、いろんな経歴を混合してキャラ立ちする仲良し二人組にしたのかもしれない。植物学雑誌第一号で田中延次郎は すっぽんたけの成長を染谷徳五郎は 花と蝶との関係を発表する池野成一郎も東大の植物学教室を卒業した植物学者。牧野富太郎も自叙伝の中で「親友」と呼ぶ人物です。1866年6月25日(慶応2年5月13日)生まれ。堺奉行も務めた旗本 池野好謙の息子です。池野成一郎は開成学校から帝国大学 理科大学(東京大学)の植物学科に入学。池野成一郎は帝国大学 農科大学助教授になりました。そして池野成一郎と藤井健次郎は落胆している牧野富太郎を農科大学に誘いました。農科大学にはかつて一緒に植物学を学んだ白井助教授もいます。研究する場所くらいは提供できるということでした。こうして池野成一郎や白井光太郎助教授の好意によって牧野富太郎は農科大学に出入りして研究を続けることになりました。その後、矢田部教授が帝国大学 理科大学(東大)を追い出され。松村任三教授が後任になり、牧野は植物学教室で「助手」として雇われることになりました。後に、牧野富太郎が松村任三教授と対立。助手を解雇されたことがありました。それを知った仲間たちは牧野を戻そうと運動を起こしました。そのころ農科大学教授になっていた池野成一郎も熱心に牧野の復帰を呼びかけた、東大の桜井学長に直談判して牧野の必要性を認めさせ。牧野を助手よりも待遇の良い講師として雇うことになりました。他にも池野成一郎は牧野が熱心に取り組んだ「日本植物誌」の発行にも協力。・染谷徳五郎は大久保三郎らと共著で「師範學校植物教科書」「中學植物教科書」「高等女學校植物教科書」「植物學字彙 : 全」「植物生理學 : 教科用」を作成している。大久保三郎, 齋田功太郎, 染谷徳五郎合著また「植物形態學 : 全」K. Prantl著 ; S.H. Vines英譯 を 齊田功太郎, 染谷徳五郎補譯している。もっとも藤丸次郎のモデルは市川延次郎であり、東京大学を辞めないという説もある。理由・藤丸は「俺の実家も酒問屋だよ! 隅田川の手前、千住の南で問屋をしてる」と万太郎に語っていました。Wikipediaによると、市川延次郎(のちの田中延次郎)は、「江戸・千住南組の酒問屋の長男に生まれた」・市川延次郎(=田中延次郎)は「東京帝国大学理科大学植物学科を1889年に卒業した」さらに言えば「佐川に帰ります」と万太郎を脅した 竹雄 同様 ウソぴょん でつまり、「東大をやめる」は、脚本家がたくらんだ 馬琴の七則 照応「譬えば律詩に対句ある如く、彼と此と相照らして、趣向に対を取るをいふ」「照対は、牛をもて牛に対(つい)するが如し。その物は同じけれども、その事は同じからず。」で、視聴者に「佐川に帰ります」と同じ効果をねらったものかもしれない。「こうろぎらん」では、藤丸は万太郎と一緒に植物採集の旅にでる。池野成一郎と牧野富太郎(大正12年)眼鏡をかけてる雰囲気なども 波多野 泰久 に似ているおうな。そうであれば らんまんでは 引き続き 波多野 泰久 が登場するのに対し、藤丸さんとはお別れになるか?SNSではそんな予感に「藤丸や万さんに悲しい事が起こりませんように」「えええ藤丸くん…」の声も明治22年、牧野博士が初めて横倉山で発見し命名したもの。8~9月、淡緑色でわずかに紫色をおびた花をつける。和名は花の色と形状をコオロギの羽に見立てて牧野博士がつけた。常緑林やスギ林内に生える多年草。明治22年に、高知県の横倉山で吉永虎馬や牧野らが見つけ牧野博士が同定を頼んでロシアのマキシモヴィッチに送った。マキシモヴィッチが新種として命名したが、マキシモヴィッチは急死し、牧野博士が変わって学名を公表した