信濃川改修工事 その5
信濃川改修工事 その5次いで十六、七年の県会において田沢実入氏等大河津分水の請願を建議し、これを可決して県会より委員を上京せしめ政府に陳情せしめた。 明治十八年政府は内務技師古市公蔵氏の治水計画を採用して信濃川改修工事を起すに至った。その計画は堤防の改築と河身の改修であった。而して河身改修費は国庫これを負担し、堤防の改築費は県民これを負担することになった。ここにおいて新潟県会はこれが経費一、六二〇、三九六円、十三ヶ年の継続事業を可決し、十九年十二月堤防改築の起工式を挙行して着々工事を通むるに至った。 二十三年十二月県会において改修工事設計更正の建議があって論議せられたが、通過せずして改修工事は予定の進行をなしたが、二十七、八年の戦役に続いて二十九年、三十年に亘って信濃川その他諸川の大洪水があって、信濃川筋は横田、黒粂、大郷を始めとして数ケ所の大破堤があった。その損害数千万円に上り、剰え天気陰鬱で温度低下のため稲作に浮塵子の害があって、愁雲全県を覆い米価暴騰して県民の不安甚だしく、延いて信濃川堤防改築工事無効の声漸く高く、大河津分水の論又再燃して有志は復々運動を開始するに至った。 三十一年県会において信濃川排水の件に付決議し、三十四年十二月県会において小嶋太郎一外十五氏より建議して信濃川堤防改築工事の効果寡きを難じ大河津分水の利を説き、満場一致の議決を以て政府に請願書を提出した。然るに三十五年十二月県会に分水反対の建議が出て議会を紛擾せしめた事があったけれども、県民の熱望と政府の精密なる調査の結果、政府もこれを認め、いよいよ実行の域に到達せんとしたが、偶々日露戦役突発のため遂に起工の延期を余儀なくせられた。 由来大河津分水については反対を唱えるものがあった。即ち第一は分水工事のため立ち退きせしめられるべき分水渠付近の諸村、第二には分水渠新堤の崩壊して水害を蒙らん事を憂慮する諸村、第三は直接利害関係の少なき町村にありては経費の負担に苦情ある事、第四は灌漑水を失わん事を杞憂する諸村であった。しかしこれらは一小問題で、外に一大故障と称すべきは 新潟県の故障 である。即ち新潟の港を形成する所以のものは、一に信濃川と阿賀野川との恩恵によれるものとし、往年溝口家にて阿賀野川を疏鑿しその本流を松ヶ崎へ落し、新潟港への流水を減じたるため新潟港口に及ぼす影響は土砂の沈殿を多からしめ、而して港口を游塞するに至れりとは市民の夙に